江戸に幕府が成立して、首都の人口が急増すると、東北諸藩の藩米が重要な食糧となりましたが、問題は運搬手段でした。当時、石巻港から積み出された仙台米は、次の三つの経路を辿って江戸に運ばれました。
一つ目は、難所の鹿島灘、銚子沖を経て、房総半島を大きく迂回し、伊豆の下田または大島を経由して江戸湾に入るコース。
二つ目は、銚子港に入港し潮来を経て高瀬船で利根川を遡るコース。
三つ目は那珂湊に入港し、荷を積み換えて、涸沼、北浦、潮来を経て利根川に入るコースでした。
三つ目の内川回りコースは、最も安全でしたが、途中の涸沼―北浦間は荷駄となり、江戸に着くまでに日数を要しました。そこで水戸藩は、運河を開通させ通行税を徴収すれば藩の財政建て直しにもなると考え、松波勘十郎を責任者にして、宝永四年(一七〇七)に 着工しました。
工事は、涸沼側の海老沢(現茨城町)と北浦側の巴川沿いの紅葉(現鉾田町)の間約十キロメートルの台地を人力で開削する難工事となり、近隣の農民が使役にかり出されました。約二年間工事は続けられましたが、日雇い銭も支払われず、一揆となり、結局中止されてしまいました。
その後、大型船が建造されるようになり、荒天時を除いて、東北の藩米は直接に銚子ま たは江戸へ運ばれました。松波勘十郎と農民たちが掘った運河は、勘十郎堀(紅葉運河)と呼ばれ、今でも細長い水田やアシ原として名残りをとどめています。