平成三年(一九九一)秋、霞ケ浦は二度の雨台風に見舞われ、水位がYP二・五メート ール(平水位YP一・〇メートル)まで上昇し、戦後最大の増水となり、洪水寸前の状況で した。もともと霞ケ浦沿岸は洪水の常襲地帯で、戦前は昭和十年(一九三五)、十三年、十六年と大洪水が続き、土浦でも被害があったことは、「むかしの写真・土浦」(土浦市 教委他刊)で知ることができます。
また、江戸時代にもたびたび洪水があり、長島尉信著「土浦洪水記」によると、主なものだけで十五回にも及ぶことを、筑波大学の岩崎宏之教授が紹介しています。しかし奈良時代に成立した「常陸国風土記」には水害の記述はなく、住みやすい常世の国であると書かれています。霞ケ浦沿岸ではいつごろから、なぜ洪水が頻発するようになったのでしょうか。
それは、江戸幕府の成立に大いに関係があります。天正十八年(一五九〇)、徳川家康が江戸に入府した後、江戸周辺の水害防止、新田開発、水運確保のために、三河以来の忠臣、伊奈備前守が三代、約六十年を費やして、栗橋から関東ロームの赤土の台地を開削して、それまで江戸湾に注いでいた利根本流を旧常陸川に流す大工事を行いました。
それ以来、利根川は大量の土砂を銚子口へ流すようになり、下流部が土砂の堆積によって浅くなり、利根川は滞留して霞ケ浦は遊水地と化しました。いわば霞ヶ浦一帯は江戸発展の犠牲となったわけです。
増水によって浮き上がった観光船(土浦港)。平成3年秋の雨台風による増水で平水位より1.5mも上昇し、土浦港の岸壁も冠水し、洪水寸前となった。