江戸時代初期の利根川東遷工事によって、常総地方では洪水が頻発し、農業被害だけでなく人命が失われることがたび重なり、人々は安心して暮らすことさえできなくなりました。
江戸期の利根川は外浪逆浦に直接流れ込み、銚子口へ抜けていました。河口部は岩礁地帯で狭く、当時の土木技術では拡幅も浚渫もできなかったため、洪水は霞ケ浦に滞留しました。幕末に至り、滞留した悪水を鰐川から鹿島灘へ、堀割によって放流させようとしたのが中館広之助です。彼は河内村の出身で、洪水の悲惨さをよく知っていました。
広之助は、堀割工事の最初の許可願を、文久二年(一八六二)に水戸藩に出しましたが 容れられず、再度の願い出も同様でした。まもなく水戸藩は明治維新に巻き込まれ、堀割工事どころではなくなりました。
許可が下りたのは新政府になってから、資金の援助者も現れ、明治二年(一八六九)に 着工し、様々な困難を克服して明治四年七月、「居切堀割」が完工しました。
しかし、悲運にも海水の逆流が起こり、目的を達することはできませんでした。現在、この居切堀割の川口は、鹿島港中央航路となりましたが、鰐川側ではわずかに名残りをとどめています。以上の経緯は、中村ときを著「居切堀割川」(神栖町観光協会刊)に劇的に描かれています。
鹿島港を一周する遊覧船「ユーリカ」