もくじ

表紙
1・霞ヶ浦の地誌

2・古代の霞ケ浦

3・霞ヶ浦の民俗・信仰

4・霞ヶ浦と洪水

第十三話
 洪水の常襲地帯
第十四話
 新利根川の歴史
第十五話
「居切堀割」放流できず
第十六話
土浦の洪水を防いだ鉄道敷
第十七話
台風・洪水が生んだ小粒納豆

5、霞ケ浦の水運

6、霞ケ浦の水生植物

7、霞ケ浦の野鳥

8、霞ケ浦の魚・貝類

9、霞ケ浦の漁業

10、霞ケ浦とアオコ

11、霞ケ浦の富栄養化

12、霞ケ浦の化学物質汚染

13、霞ケ浦と農業

14、地球環境と霞ケ浦

15、常陸川水門

第十五話   「居切堀割」放流できず

 江戸時代初期の利根川東遷工事によって、常総地方では洪水が頻発し、農業被害だけでなく人命が失われることがたび重なり、人々は安心して暮らすことさえできなくなりました。

 江戸期の利根川は外浪逆浦に直接流れ込み、銚子口へ抜けていました。河口部は岩礁地帯で狭く、当時の土木技術では拡幅も浚渫もできなかったため、洪水は霞ケ浦に滞留しました。  

 幕末に至り、滞留した悪水を鰐川から鹿島灘へ、堀割によって放流させようとしたのが中館広之助です。彼は河内村の出身で、洪水の悲惨さをよく知っていました。

 広之助は、堀割工事の最初の許可願を、文久二年(一八六二)に水戸藩に出しましたが 容れられず、再度の願い出も同様でした。まもなく水戸藩は明治維新に巻き込まれ、堀割工事どころではなくなりました。

 許可が下りたのは新政府になってから、資金の援助者も現れ、明治二年(一八六九)に 着工し、様々な困難を克服して明治四年七月、「居切堀割」が完工しました。

 しかし、悲運にも海水の逆流が起こり、目的を達することはできませんでした。現在、この居切堀割の川口は、鹿島港中央航路となりましたが、鰐川側ではわずかに名残りをとどめています。以上の経緯は、中村ときを著「居切堀割川」(神栖町観光協会刊)に劇的に描かれています。

  鹿島港を一周する遊覧船「ユーリカ」