鉄道や道路網が未発達だった明治・大正期、霞ケ浦水系は水運により、にぎわいました。早くも明治十年(一八七七)には、内国通運によって東京―高浜間の定期航路が開かれています。
定期航路は次第に増えて、明治末期から大正期には、ローカル航路も含めて霞ケ浦、北浦の津々浦々が航路で網の目のように結ばれました。この時代に活躍した船は、通運丸、 銚港丸、開運丸、豊通丸、朝日丸などで、なかでも黒い煙を吐きながら通る外輪蒸気船「通運丸」は荷客船として最も親しまれました。
「作家・田山花袋は、大正九年(一九二〇)出版の「水郷めぐり」で、土浦から乗船し、次第に視界が開けて筑波山の眺望を楽しんだ様子を書いていますが、花袋が利用した船も 通運丸だったかもしれません。
昭和二年(一九二七)の時刻表によると、土浦I鹿島間の所要時間は五時間、運賃は九十七銭でした。
利根川、霞ヶ浦水系は、山がちな島国である日本では最も水運が盛んで、唯一本格的な水郷情緒が楽しめる地方だったと思われます。しかし、各船会社間の競争は熾烈で、統廃合や吸収合併をくり返しました。戦中を経て、戦後はバス路線など道路交通網や橋梁も整備され、水運は衰退の一途をたどりました。
一方、さつき丸、あやめ丸、香取丸などの大型観光船も就航して遊泳客を運んでいましたが、湖水の汚濁とともに客が激減し、昭和五十年前後に相次いで廃止されてしまいました。土浦I潮来間の航路が復活したのは、科学万博以後です。