江戸時代初期の利根川東遷工事の影響は、霞ケ浦一帯の洪水の頻発という形であらわれましたが、手賀沼や印旛沼周辺でも事情は同じでした。旧常陸川下流の常総の村々は、利根川の水害を真っ向から受けることになりました。
また、江戸時代にもたびたび洪水があり、長島尉信著「土浦洪水記」によると、主なものだけで十五回にも及ぶことを、筑波大学の岩崎宏之教授が紹介しています。この悪水の状況を改善し、手賀沼と印旛沼の干拓を目的として、利根川の水を直接霞ケ浦へ流す掘り割り工事が、寛文二年(一六六二)に開始され、同六年に完工しました。その距離約二十三キロメートル。ほとんど直線の人工河川で、新利根川と呼ばれることになりました。
しかし、この川は狭い上に浅く、勾配がないため、増水期には利根川の大量の土砂が堆積し、堤が破れて沿岸は洪水となりました。結局、目的を達せず、開通後わずか一年にして、利根川との分岐点を閉鎖してしまったということです。
現代の土木技術からみれば、ほとんど高度差のない利根川下流と霞ケ浦間を疎通させる ことが無理であり、仮に流れたとしても今度は、霞ケ浦沿岸が洪水に見舞われることは自明です。おそらく当時は、広大な霞ケ浦はまだ内海のイメージが強く、利根川の奔流を呑みこんでくれると期待されたのでしょう。
現在の新利根川は、わずかな流れがあるだけですが、周辺は大きな汚濁源がなく、最近まで水質は良好で、淡水真珠養殖が行われ、ヘラブナ釣りのメッカでした。しかし近年は 流域に造成された十場ものゴルフ場の影響が心配されます。
新利根川下流の大須賀橋から川下風景