つくば市内の茗渓学園高生が昭和五十九年(一九八四)に、つくば市上広岡の花室川河床でナウマン象化石を発見したことが、常陽新聞紙上で大きく報道されたことを、ご記憶の読者も多いことでしょう。
高校生たちは、その後も勉強の合い間に、渇水期に河床を探して歩き、現在まで約二十 個(五〜六頭分)の、いろいろな部位の化石を発見し、地質調査所の研究者の指導を受けながら研究しています。
それによると、霞ヶ浦周辺でのナウマン象化石発見地は十数カ所にのぼり、稲敷郡を中 心に広く分布しています。この分布図は、出島村郷土資料館に、また頭骨化石(模造)は 佐原市の千葉県立大利根博物館にそれぞれ展示してあります。
ナウマン象は、現在のインド象くらいの大きさで、肩の位置の高さが約二・五メートル ありました。非常に大食漢で、一日に体重の一割の重さの食料(植物)を食べていたと推 定されています。ナウマン象が生息していた年代は、約三十万年前から二万年前にか ですが、原始の霞ケ浦周辺の植生がいかに豊かだったかを想像させます。約三万年前は ウルム氷期で、海水準が低下し、陸地化した霞ケ浦低地を古鬼怒川が流れていましたか ら、その岸辺でナウマン象の群れが草を食べ、水浴びしていたことでしょう。
ナウマン象は約二万年前に絶滅してしまいましたが、その直接の原因は、私たちの祖先 (旧石器時代人)の狩猟圧だったかもしれません。霞ケ浦の底の砂礫層には、たくさんの ナウマン象の化石が眠っていると思われます。
稲敷市の浜辺でナウマン象は砂浜の向こうに筑波山を見ていただろうか?