霞ケ浦は海跡湖です。約一万年前の縄文海進の時期には、八郷町柿岡や旧筑波町神郡の付近まで海が迫り、土浦市の桜川沿いの低地は海の底でした。出島村歩崎、美浦村馬掛、 土浦市高津には荒波が押し寄せていました。当時の海岸線は貝塚の分布で知ることができます。
その後、海は次第に後退しましたが、約千二百年前の養老年間(奈良時代前期)には、 霞ヶ浦はまだ深く入り組んだ入江で、牛久沼、印旛沼、手賀沼、菅生沼ともつながっていました。
このころに、朝廷への報告書として成立した「常陸国風土記」には、浮島(桜川村)で は海亀の甲羅を焼いて占いをし、海苔をつみ、製塩も行われていたことが記されています。近くの遺跡からは製塩土器片が多数出土しています。今年(平成元年、一九八九)五月二十日にキャンプ場の下見のため浮島の和田岬を訪れたのですが、霞ヶ浦湖畔に海浜植物のハマエンドウ(マメ科)の群落があるのに驚きました。この植物は内陸には自生しないので、「常陸国風土記」当時の製塩によって今なお土壌中の塩分濃度が相当高いのでは ないかと考えています。
和田岬は、砂地で、昭和四十年(一九六五)ごろまでは、夏になると土浦港から観光船 が出て、キャンプや湖水浴の客でにぎわったのですが、今は残念ながらさびれてしまいま した。
現在の霞ケ浦の塩分濃度は湖心で約四十ppmとほぼ完全に淡水化されています。昭和三十八年に常陸川水門が完成し、海水の逆流を防いでいるためです。
古代の霞ヶ浦(霞ヶ浦河川事務所より)