住まいの文化 |
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建築文化史家 一色史彦 | |
(八)寝殿造りを建てる気概 | |
寝殿造りを建てる気概、感懐を「池亭記」に。 みなさん平安時代中期に清少納言という才女の書いた「枕草子」を読んだことがあると思います。同時代に慶滋保胤という人がいます。天皇の詔勅や貴族の位記を書くことを職務としていましたが、子息が成年になったのを期に、そのころ踊り念仏を始めた空也上人の弟子となって出家して、名を寂心と改ました。諸国を遍歴し「日本往生極楽記」という名著の作者でもあります。五十歳になってようやく、自分の家を持った感懐を「池亭記」に記しています。 |
*清少納言 |
当時の大貴族たちが競って豪邸を建てる風潮を批判しています。その上で「仁義を以ちて棟梁となし、礼法を以ちて柱礎となし、道徳を以ちて門戸となし、慈悲を以ちて垣域となし、好倹を以ちて家事となし、積善を以ちて家資となす」ことの大切さを強調しています。そうすれば家は豊かに、主人は長生きするというのです。 平安貴族の住まい、寝殿造りにははっきりとした手本がありました。平安内裏そのものです。内裏とは、天皇のお住まいで、皇居、御所、禁裏、禁中、大内などとも言います。その中心になる一建物が紫宸殿です。名称からして相通ずるように、内裏と貴族邸は建物の造り、屋敷配置は酷似しています。また、そうせざるを得ない理由があったのです。 大貴族たるものいずれは摂政・関白・太政大臣になって政務を執ることを望み、その近道として自分の娘が天皇の子を生み外戚(母方の親類)となることを願いました。もっとも成功したのが藤原一門であり、他家が入り込むことを徹底的に排除したのです。中国からの文化流入を止めた遣唐使廃止の目的のひとつは、あるいはここにもあるのではないか、と私は考えています。 |
*慶滋保胤(よししげのやすたね ) |
ところで今でも出産の時などに、母方に身を寄せることを”お里に帰る”と言いますが、その風習は平安時代の天皇家でも同様でありました。天皇が身を置くところが、すなわち内裏です。皇居が火災にでもあうと、母方の貴族邸に身を寄せることになります。それを里内裏と称しました。平安遷都以来の内裏が天徳四年(九六〇)にはじめて炎上して以来というもの実に頻々と火災にあっています。 | *里内裏 里内裏は本来の皇居の焼失などの理由で仮の皇居として使われたものを云います。 今の京都御所は南北朝時代の北朝の光厳天皇が元弘元年(1331)以後に東洞院土御門殿を皇居と定めたものです。 |
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