住まいの文化
  建築文化史家 一色史彦
(五)十二単衣の夢  
 大学院に進んだ頃、ちょうど東京オリンピックの直後のこととて、世の中は高度経済成長期にありましたが、私の関心はまことに浮き世離れした方向にむいていました。
 たまたま研究室での私の席の背中に鎌倉幕府の公式記録と云うべき「吾妻鏡」が並んでおりました。それこそもっとも手近な読み物でした。原典を読むことがこれほどに面白いものかと感激したものです。あらゆる社会現象が盛り込まれているのです。いわゆる歴史学の専門家というものは自分の研究テーマの部分だけを抜き出している似すぎないことを知りました。人間生活の営みは誠に多岐で多彩なものです。
 これを完読したあと、それに続けて並んでいた「大乗院寺社雑事記」と云う奈良興福寺の別当の書いた日記を読み始めました。これもまた面白いこと。応仁・文明の大乱という、それこそわが国の歴史上に未曾有の混乱を招いた動乱のまっ只中の社会が生き生きと描き出されています。
 京都からちょっと離れた位置から、しかもその当時最高の文化人であり、関白太政大臣を務めた一条兼良の子息という立場からの観察記ですから、一種の内幕物というべきものになっています。
 この筆者はそれこそよく夢を見るのです。私もこの本を読んでいるうちに、貴族階層の住まい、寝殿造という住宅様式に関心が向き、ついには十二単衣(じゅうにひとえ)の女性が夢に登場するくらいにまでなっていました。これから数回は寝殿造についてお話しします。

*十二単衣
正式な名称は「五衣・唐衣・裳の服」(イツツギ・カラギヌ・モのフク)と言い、皇室の方がお召しになる衣裳には、全て御(おん)を付けて「御イツツギ、御カラギヌ、御モの御フク」と言います。したがって12単衣と言うのは俗称で、単衣(ひとえ)の着物を12枚着ているのでなく、12分に着ている事で現在は8枚が基本です。
過去には20枚も着ていたこともあり、立って歩く事が出来ず膝で歩いていたようです。そして十二単衣は1本の紐で着装(着付け)しています。

*吾妻鏡
成立は鎌倉時代。幕府自身の手による歴史書。武家の“道理”による天下草創の歴史を子孫のための鏡として残すことに発した。東鑑とも表記。1180年(治承4)源頼政の挙兵の顛末から始まり1266年(文永3)6代将軍宗尊親王が将軍職を解任され,京に帰るまでの80余年間,つまり鎌倉幕府中期までの歴史を編年体で記述した,わが国最初の武家記録である。

*大乗院寺社雑事記
大乗院門跡尋尊・政覚・経尋の日記の総称で1450年(宝徳2)から1527年(大永7)にいたる約80年間のもの。このうちこの名称で刊行されているのは尋尊関係のみで『寺務方諸廻請』『寺社雑事記』および『大乗院日記目録』である。前二者は一般に「尋尊大僧正記」「尋尊大僧正記補遺」と通称されているが尋尊自らの原題に従うべきであろう。

 

 

   
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