石岡市の常陸国国衙跡(現石岡小学校)から北方千六百メートルに鹿の子遺跡があります。
この遺跡は、桓武天皇の治下、延暦年間(七八二年〜八〇五年)を最盛期とし、奈良中期から平安初期まで、東北の蝦夷征討のための武器や武具を生産した工房群跡と考えられています。石岡市教育委員会の発掘調査により、二百軒以上もの建物跡が明らかとなり、工人をはじめ約千人もの人々が住んでいたと推定されます。第一次産業に携わらない千人もの人間 の食糧は相当なものです。
また同遺跡から出土した漆紙文書によると、当時の常陸国の総人口は約十九万二千人で、国府にはその一割約二万人が集中していました。国府の住人には官吏をはじめ、国分 寺、国分尼寺の僧侶たちも多く、彼らの食糧調達は当時の生産力からみれは、かなりの負担でした。墾田永年私財法の詔(七四三年)により開田が奨励されていましたが、常陸国では谷津田が多く、霞ヶ浦沿岸の低地は広大なアシ原でした。谷津田は比較的安定した収穫がありましたが、生産力は低く、米が主食になり得たか疑問です。
常陸国府の二万人の人口を支えたのは、やはり当時流海と呼ばれ、内海だった霞ケ浦の豊富な魚介類と、温暖な常陸野の台地が生み出した雑穀、野菜、野草、木の実、それに時には鹿や猪などの獣肉類で、栄養的にも十分だったと思われます。常磐高速道の建設により壊された鹿の子遺跡の住居跡の記録より、常陸風土記の丘に復元された工房建物