江戸時代の東海道の起点は江戸日本橋ですが、奈良時代の東海道の終点は常陸国府(石岡)でした。当時の旅人は、下総国から古利根を渡り、現在の取手、竜ヶ崎、江戸崎を経て美浦の馬掛から乗船して対岸の牛渡に至り、出島半島を横断後、再び乗船して高浜に到着したと推定されています。
霞ケ浦は当時、流海と呼ばれた内海で、水上交通が盛んでした。特に高浜の港は奥まった入江に位置し、波が静かでたくさんの舟が行き来し、物資の集散地でした。
「常陸国風土記」茨城郡の条、高浜の記事は、風土記中白眉の名文で、リズム感豊かに入念に自然な人々の生活の様子が描写されています。
それは、中国江南地方や東南アジアのメコン川、メナム川河口付近の水郷地帯とも共通するアジア的ユートピアの一典型と思われます。
朝廷への報告書として成立したにもかかわらず、風土記の記述には支配者の傲りが感じられず、全編が常陸国に好意的で、特に高浜の記事からは官吏たちの思い入れが伝わって くるようです。
すでに律令国家体制の管理社会である奈良の都から赴任した官吏たちにとって、常陸国での任務は、立身出世主義を忘れて、のびやかに人間らしく暮らし、命の洗濯をする有給休暇のようなものだったのかもしれません。他国の風土記が消滅した中で、常陸国風土記が読み継がれ、現存する秘密はこの辺にありそうです。
常陸の国はその境界広く、土は豊かで丘は肥え、原野は肥え渡る。この場所を開墾すれば、海と山の利益は、人々が自ずと得られる。家々に充分に足るだけある。満ち足りている。身を労して田畑を耕し、力を尽くして蚕を飼い、糸を紡げば、富を得て、豊かになるのが可能だ。自然に貧窮を免れる。いわんやまた、塩、魚を味あうには、左は山、右は海、桑を植え、麻の種を蒔くには、後ろは野原、前は草原。この場所を謂うには、水産、農林に適した蔵のようだ。物の産出が、油が滴っているようだ。昔の人がいった常世の国、けだしこの地のことと疑うほどだ。但し、水田に上のものは少なく、むしろ並位のものが多い。長雨に遭うと、苗が育たないのが難点と聞く。よく陽が射し、照る年に逢えば、穀物の実りは豊かで、喜ばしい事か。