近代建築図鑑

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青森森林博物館 青森県立郷土館 中世の館・郷土資料館 中世の館・郷土資料館 青函連絡船埠頭
旧青森営林局 旧青森銀行本店 旧浪岡小学校 旧浪岡小学校 第1、第2岸壁
青森市柳川2-4 青森市本町2丁目8-14 青森市浪岡大字浪岡岡田43 青森市浪岡大字浪岡岡田43 青森市柳川一丁目1-1
1909(明治42年) 撮影 92-07 1931(昭和6年) 撮影 99-08 1928(昭和3年) 撮影 92-07 1928(昭和3年) 撮影 06-10 1928(昭和3年) 撮影 87-03
★市指定文化財 ★国登録文化財 ★ 連絡船廃止前
size 2829 X 2022 size 3276 X 2007 size 3014 X 1934 size 3517 X 1931 size 3358 X 2252
02-0001-01 02-0001-02 02-0001-03 02-0001-04 02-0001-05
津軽半島のヒバ林は日本三大美林の一つとして知られていた。青森営林局は近くに青森貯木場が有り、建築材料は、構造材から造作材に至るまで、地元材のヒバ材でルネッサンス風建築様式で、木造二階建で建てられた。 旧青森銀行本店として、昭和6年に建築された。RC(鉄筋コンクリート)造2階建の建物である。古典主義の骨格に細部装飾を略したモダニズム様式。数多くの洋風建築を手がけた名匠・堀江佐吉の。設計施工である。 旧浪岡小は木造2階建で玄関入口上部に搭屋が付く。玄関入口上部がアーチになっている。内部は片廊下式で床は板敷、、壁は白漆喰仕上げ、昭和初期に建てられた教育施設。改修され歴史資料館施設として一般公開されている。
青函連絡船は国鉄直営の青森〜函館航路として明治41年に開設された。本州と北海道の鉄道を連絡する幹線ルートとして、輸送を担っていた。大正時代に車載客船・車両渡船岸壁の完成により、鐵道車両航送が出来るようになった。

 

● 旧青森地方裁判所 ● みちのく銀行本町支店 ● 青森スポーツ会館 弘前市仲町地区 青森銀行記念館
旧庁舎 旧店舗 旧NHK青森放送局 町並み保存地区 旧店舗
青森市中央 青森市本町 青森市本町 弘前市仲町地区 弘前市下親方町31
1954(昭和29年) 撮影 90-06 1937(昭和12年) 撮影 99-08 1925(大正14年) 撮影 92-07 町並み保存 撮影 06-10 1904(明治37年) 撮影 92-07
★ 取毀 ★ 取毀 ★ 取毀  ★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財 
size 3171 X 1863 size 3237 X 2021 size 3324 X 1864 size 4896 X3264 size ・・10点
02-0001-06 02-0001-07 02-0001-08 02-0010-01 02-0010-02

    弘前城の北側にある仲町地区は、生垣、門や板塀、前庭の樹木などが美しい、藩重臣の子弟を配置した侍町である。 県指定・旧岩田家住宅、国指定・旧笹森家住宅、県指定・旧伊東家住宅、旧梅田家住宅が公開されている。
国立銀行として設立された第五十九銀行が本店を明治37年に建築した。ルネッサンス風の洋風建築。設計施工は堀江佐吉で、佐吉が作図したという建築図面がある。作家・太宰治の生家「斜陽館」を手がけたことで有名である。

 

            
弘前学院 弘前女子厚生学院記念館 日本基督教団 日本基督教団 日本基督教団
外人宣教師館 旧弘前偕行社 弘前教会堂 弘前教会堂 内部 旧牧師館
弘前市稔町13-1 弘前市御幸町8-10 弘前市元寺町48 弘前市元寺町48 弘前市元寺町48
1906(明治39年) 撮影 92-07 1907(明治40年) 撮影 92-07 1907(明治40年) 撮影 06-10 1907(明治40年) 撮影 06-10 1904(明治37年) 撮影 92-07
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★県指定文化財  ★県指定文化財 ★ 解体保管
size 2468 X 1955 size ・・10点 size 2648 X 3004 size 4000 X 2672 size 2769 X 1931
02-0010-03 02-0010-04 02-0010-05 02-0010-06 02-0010-07
外人宣教師館は同校に派遣された米国婦人宣教師の宿舎として明治39年に建設された。外壁は下見板張、窓に鎧戸がつく。内部は中廊下で床を板張とし、天井、壁は漆喰塗。設計施工は弘前の棟梁・桜庭駒五郎と伝えられる。
偕行社は日本陸軍に勤務する将校の親睦・互助施設である。弘前第八師団の施設として明治40年に建設された。設計施工は棟梁・堀江佐吉である。戦後は現在の弘前厚生学院に引き継がれ、校舎や保育園の園舎として使用された。 明治37年焼失後、明治40年に完成した。フランスゴシック風の双塔形式で、四方に控柱を設ける。窓は尖塔アーチ。内部は天井を大きく折り上げてある。設計施工は弘前学院外人宣教師館を施工した棟梁・桜庭駒五郎である。

日本基督教団弘前教会旧牧師館は明治37年に教会堂と共に焼失後、同年11月に再建された。外観は下見板張ペンキ塗の外壁など洋風だが、内部は一部床に畳を敷くなど、和洋折衷。設計施工は田中忠五郎である。解体して保管中。

 

石場旅館 三上ビル 弘前高等学校 旧弘前市立図書館 日本聖公会
主屋 旧弘前無尽社屋 鏡が岡記念館 図書館 弘前昇天教会教会堂
弘前市大字元寺町55 弘前市大字元寺町 弘前市新寺町 弘前市下白銀町5 弘前市山道町
1879(明治12年) 撮影 06-10 1927(昭和2年) 撮影 87-12 1894(明治27年) 撮影 11-08 1906(明治39年) 撮影 92-07 1920(大正9年) 撮影 99-08
★国登録文化財  ★国登録文化財 ★県指定文化財 ★県指定文化財 ★県指定文化財
size 3886 X 2224 size 1987 X 2594 size 4122 X 2869 size ・・10点 size 2104 X 2857
02-0010-08 02-0010-09 02-0010-10 02-0010-11 02-0010-12
小間物屋兼旅籠として、石場久蔵が明治12年に新築したと伝えられる老舗の旅館である。東西棟の入母屋造鉄板葺2棟を雁行させる。後方に土蔵、北奥の棟に広間や客室がある。玄関部分が古く、明治中期に奥の部分を増築したか。
弘前無尽株式会社が自社専用ビルとして鉄筋コンクリート造で建設した。角地の隅を切り垂直性を強調し,3階窓上部に歯飾状装飾などアールデコ調の建築ある。設計は当時、青森工業学校長をしていた大竹巽である。 青森県尋常中学校として明治26年に木造2階建ての洋風校舎で建てられた。昭和33年校舎改築のおり、本館主要部を鏡ヶ丘記念館として移築し、保存された。設計は堀江佐吉門下で旧制弘前高校外国人教師館を施工の川元重次郎。
弘前市の篤志家5人が東奥義塾高校の敷地内に建てた「日露戦捷記念弘前市立図書館」。設計施工は堀江佐吉でルネサンス様式を基調とし、ドームなど、佐吉晩年の洋風技法である。昭和6年まで弘前市立図書館として使われた。
外壁に控え壁を設けたゴシック建築で、煉瓦はイギリス積み、正面右寄りには鐘塔が配置される。設計は日本各地の聖公会教会堂を設計していたアメリカ人建築家ジェームズ・ガーディナー、、施工はクリスチャン大工の林緑。

 

旧東奥義塾 旧東奥義塾 旧東奥義塾 弘前大学 弘前カソリック
外国人教師館 外国人教師館 室内 外国人教師館 移築前 旧制弘前高校外国人教師館 教会堂
弘前市下白銀町5 弘前市下白銀町5 弘前市下白銀町5 稚弘前市文京町 弘前市百石町小路
1901(明治34年) 撮影 99-09 1901(明治34年) 撮影 99-09 1901(明治34年) 撮影 99-09 1924(大正13年) 撮影 94-05 1910(明治43年) 撮影 99-09
★県指定文化財 ★県指定文化財 ★県指定文化財 ★国登録文化財
size 3119 X1949 size 3306 X2061 size 3067 X1993 size 3202 X3757 size 1797 X3248
02-0010-13 02-0010-14 02-0010-15 02-0010-16 02-0010-17
弘前藩の藩校・稽古館が明治になり青森県内で初めて私学として、明治5年に弘前漢英学校が開校された。旧藩主である津軽承昭による財政的援助により、慶応義塾で学んだ創立者・菊池九郎が名称を東奥義塾と変更した。 旧藩主からの財政支援が無くなり、明治34年に弘前市に移管された。その折、招聘されていた外国人の英語教師の宿舎が火災で焼失していたため、外国人教師館を再建した。大正2年に廃校、大正11年に私学として復興する。 旧東奥義塾外人教師館の設計はメソジスト・ミッションボード、宣教師アレキサンダーまたは本間俊平説もある。施工は堀江佐吉または本間俊平説もある。煉瓦積の基礎、外壁が下見板張り、縦長の上げ下げ窓など洋風建築である。
大正14年に旧制弘前高等学校外国人教師館として弘前市富田に建築された。施工は棟梁堀江佐吉の下で副棟梁をつとめていた、川元重次郎である。二棟あった建物の保存状態の良い部材を活かし、創建当時の状態に移築復元された。
教会堂の建物は明治43年に建てられた。設計はオージェ神父で、施工は棟梁は堀江佐吉の弟の横山常吉が担当した。木造平屋建て、鉄板葺、外壁はモルタル仕上げ、中央の尖塔があり、丸窓、縦長の開口部など当時の洋風建築。

 

木村産業研究所 弘前市長公舎 旧藤田家別邸 旧藤田家別邸 旧藤田家別邸
社屋 旧第八師団長官舎 藤田記念館庭園・洋館 藤田記念館庭園 旧開発事業事務所
弘前市在府町61 弘前市上白銀町 弘前市上白銀町 弘前市上白銀町 弘前市上白銀町
1932(昭和7年) 撮影 11-08 1917(大正6年) 撮影 99-08 1921(大正10年) 撮影 92-07 1921(大正10年) 撮影 92-07 1921(大正10年) 撮影 92-07
★国登録文化財 ★国登録文化財 ★国登録文化財 ★国登録文化財 ★国登録文化財
size 3927 X 2129 size 3319 X 2127 size 3140 X 2131 size 2871 X 1927 size 2902 X 1966
02-0010-18 02-0010-19 02-0010-20 02-0010-21 02-0010-22
武家屋敷の風情を残す在府町にある木村産業研究所の建物は建築家・前川國男の処女作である。前川國男の母と同郷の木村隆三に依頼されて設計した。建築家ブルーノ・タウトが、著書でコルビュジェ風の新しい白亜の建物と書く。 大正6年に第八師団長官舎として建てられ、戦後は米軍の官舎として使用されていた。その後、弘前市に払い下げられ弘前市長公舎として使われている。設計は堀江佐吉の長男の堀江彦三郎が担当した。その一部が保存されている。 洋館は藤田謙一の旧別邸で、設計は堀江佐吉の六男・堀江金造、施工は長男の堀江彦三郎が当たった。。木造,外壁モルタル塗で,玄関先まで反りを付けた屋根を葺きおろすドーマー窓付の反り屋根。尖塔屋根付塔屋を持つ。
弘前市出身の日本商工会議所の初代会頭・藤田謙一が、弘前に別邸を構えるにあたり、作庭した庭園である。東京から庭師を招き、総面積は6,600坪もある、江戸風の庭園である。規模は平泉の毛越寺庭園に次ぐという。
庭園は現みちのく銀行の頭取に譲渡され、銀行の管理であったが、現在はに弘前市が整備し、公開されている。入口の西側脇にあるイギリス積み風の煉瓦造の建物は、岩木山麓に牧場開拓のために設置された開発事業事務所である。

 

正進会館 茂森会館 旧一戸時計店 百石展示館 翠明荘
歩兵13連隊将校集会所 茂森会館消防西第一分団 三原堂弘前支店 旧角三宮本呉服店 高谷別邸洋館
弘前市茂森町 弘前市茂森町 弘前市土手町 弘前市百石町 弘前市元寺町
1912-26(大正期) 撮影 99-08 1936(昭和11年) 撮影 99-08 1897(明治30年) 撮影 99-08 1883(明治16年) 撮影 99-08 1934(昭和9年) 撮影 18-10
★市指定文化財 ★国登録文化財
size 3146 X 1816 size 3196 X 2051 size 1935 X 2575 size 2780 X 1556 size 3877 X 2050
02-0010-23 02-0010-24 02-0010-25 02-0010-26 02-0010-27
歩兵第三十一連隊は明治29年に3年がかりで編成を終えて、弘前に連隊本部を設置された。将校集会所は大正時代に建てられたと思われる。玄関ポーチががあり、縦長の上げ下げ窓がある。茂森町青年会館として当地に移築された。 茂森会館は当初から消防屯所として昭和11年に建てられた近代消防建築の1つである。木造2階建てで、屋根上部中央には望楼があり、その下に腰折屋根風の破風に連窓と消防章(雪の結晶と水柱を図案化したもの)がある。 土手町にある一戸時計店は三原堂弘前支店として、明治30年に建てられ一戸時計店が大正9年に譲り受け営業していました。時計店廃業に当たり、中土手町商店街振興組合がクラウドファンディングを使い、保存する予定である。
前大火後、宮本甚兵衛が耐火の土蔵造りで「角三」呉服店の店舗ろしてに建てた。大正6年、津軽銀行(後に青森銀行と合併)が買い受けて銀行建築に改造。現在は弘前市民が文化活動のためのギャラリーとなっている。
翠明荘洋館は、津軽銀行頭取等をつとめた実業家の高谷家が別邸として昭和9年に建設した。設計施工は堀江組が担当し、棟梁を堀江佐吉の九男弥助が務めた。コンクリート造りに見えるが木造2階建、寄棟造銅板葺である。

 

消防団4分団屯所 ● 亀屋革具店
屯所 店舗
弘前市紺屋町 弘前市一番町
1933(昭和8年) 撮影 11-08 明治期 撮影 11-08
★ 取毀
size 3312 X4416 size 4023 X3257
02-0010-28 02-0010-29
元は旧紺屋町消防屯所と言い、地元名士の寄付により建築された消防団の建物。中央に3階の望桜があり、ほぼ左右対称の建物である。作家 寺山修司の生地は紺屋町なので、警察官であった父は出入りしたと思われる。  

 

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2022-02-10  修正 2022.03.14