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玉蔵院地蔵堂 | 喜多院鐘楼門 | 仙波東照宮 | 川越の町並み |
さいたま市浦和区仲町2-13-22 | 川越市小仙波町 | 川越市小仙波町 | 川越市幸町 他 |
竣工/安永9年(1780/江戸中期) | 竣工/寛永10年(1633) | 竣工/寛永17年(1640/江戸前期) | |
★市指定文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国伝統的建造物群保存地区 |
平安初期に弘法大師により創建されたと伝えられる。地蔵堂には、平安時代末期の地蔵菩薩立像(県指定)が安置されており、地蔵信仰の寺として長い歴史を持っている。入母屋造、天井画など装飾性の高い桁行、梁共8.34mの方三間仏堂。 | 建立年代ははっきりとしていないが、寛永10年に東照宮の門として鐘楼門が建立されたことが「星野山御建立記」の記録にみえる。桁行3間、梁間2間の朱塗りの楼門。入母屋造、袴腰付。2階の前面に龍、背面に鷹の彫刻がある。 |
日光、静岡と並ぶ日本三大東照宮の一つ。天海僧正が徳川家康を祀ったもの。多くの人に崇拝してもらうために高さ5間の丘陵を築き造営したが寛永15年の川越大火で焼失、三代将軍家光が再建した。 |
喜多院もあり多くの人で賑わう。平安時代に川越氏が館を築いて勢力を拡大した。江戸時代になると江戸の北の守りと共に舟運による物資の集積地として重要視され発展した。防火建築である土蔵造の商家建築が連立する観光化された町並みである。 |
大沢家住宅 | 宮岡家(まちかん) | 山崎家(亀屋) | 原田家住宅 |
川越市元町1-15-2 | 川越市幸町7-3 | 川越市仲町4-3 | 川越市松江町2-8-6 |
竣工/寛政4年(1792) | 竣工/明治30年(1897) | 竣工/明治27年(1894) | 竣工/明治27年(1894) |
★国指定重要文化財 | ★市指定文化財 | ★市指定文化財 | ★市指定文化財 |
一番街に並ぶ蔵造り建築の中で最古で、呉服太物商の近江屋半右衛門が寛政4年に建てた蔵造りのお店。明治26年の川越大火の焼失から免れた土蔵造住宅。外観はシンプルだが内部には数奇屋風の座敷や箱階段がある。 |
土蔵造りの商家建築「店蔵」。間口3間半、奥行3間、蔵壁は「江戸黒」と呼ばれる黒塗りで観音開きの戸前と土戸で密閉性を高めている。刃物を扱う現業商家。 |
店蔵と袖蔵を持つ土蔵造りの老舗和菓子店。五代目・山崎嘉七が建てたもの。 |
背の高い箱棟を持つ土蔵造り商家。かつてこの辺りには米問屋が並び、中でも繁盛していたのが原田家「足立屋」である。二階の観音開扉は火災時に密閉性を高めるために枠取りが6段になっている。 |
服部家住宅(服部民俗資料館) | 小林家(蔵造り本舗) | 黄林閣(旧柳瀬荘) | 小野家住宅 |
川越市幸町6-8 | 川越市幸町2-16 | 所沢市坂之下437 | 所沢市林2-426 |
竣工/明治26年(1893) | 竣工/明治26年(1893) | 竣工/天保15年(1844/江戸後期) | 竣工/江戸中期 |
★市指定文化財 | ★市指定文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
山新(服部家)創業は安政4年の下駄・傘・薬種商。土蔵造に似せた塗家造。土蔵造に比べ壁が薄い造りである。二階に窓はなく低い逗子(つし)二階である。当時川越で流行していた軒蛇腹や出桁などの伝統的衣装を採用した川越を代表する塗家造住宅。 |
大火直後、当時呉服太物商の二代目・小林佐平によって建てられた。奥には明治16年竣工の文庫蔵が大火の延焼を逃れて残っている。 |
電力王・松永安左エ門の旧別邸。元は東久留米市柳窪の大庄屋・村野家住宅で、それを安左エ門が譲り受けて現在地に移築した。入母屋造、九間取りの大規模農家である。 |
軒が低く、自然のままの曲がった雑木を柱や梁に使っている。内部は正面に土間があり、土間の左側には囲炉裏のある板敷の広間、その奥に畳敷きの8畳間と板敷の4畳間を配しており、当時の典型的な民家の間取。家のそばで手に入る材料で建てられた開拓農民の家。三間取り広間型。 |
旧台徳院霊廟御成門 | 旧台徳院霊廟丁字門 | 福徳寺阿弥陀堂 | 福徳寺阿弥陀堂 |
所沢市上山口2213 | 所沢市上山口2213 | 飯能市虎秀 | 飯能市虎秀 |
竣工/寛永9年(1632) | 竣工/寛永9年(1632) | 竣工/鎌倉末期 | 竣工/鎌倉末期 |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
寛永9年に亡くなった徳川幕府2代将軍徳川秀忠芝の霊廟の門で増上寺内に建立された。御成門は、将軍参詣に使われていた門です。飛天の彫刻や絵画が多く描かれ、朝鮮渡来の天人門といわれる。 |
丁子門は、台徳院霊廟から崇源院霊牌所への通用門で、崇源院は、2代将軍徳川秀忠夫人(江ごう)。台徳院霊廟は、昭和20年の空襲で大部分が焼失し、勅額門・惣門・丁子門・御成門の4棟は戦火を免れた。昭和38年に、惣門を除く3棟が所沢市上山口に移築された。 | 埼玉県最古の木造建築で飯能市唯一の国重文建築物である。方三間、板壁造で縁周り付、前面は蔀戸である。屋根は茅葺きから元の小屋組に戻し、銅板葺にした。以前は茅葺であり、茅葺復元が望まれる。 |
内部の厨子も国指定でこちらは室町の竣工と推定されている。厨子は檜の白木造りで、簡素で、木鼻の特徴や欄間のすかしなどから、桃山時代前後と考えられている。 。 |
長光寺三門 | 我野神社本殿 |
古民家ひらぬま | 古民家ひらぬま |
飯能市下直竹 | 飯能市吾野 | 飯能市上名栗 | 飯能市上名栗 |
竣工/江戸初期 | 竣工/安永4年(1776/江戸中期) | 竣工/明治20年代後半 | 竣工/明治20年代後半 |
★市指定文化財 | ★ | ★県景観重要建造物 | ★県景観重要建造物 |
桁行3間、梁間3間の一戸楼門。前面は半間の柱間で類例を見ない。入母屋造、銅板葺屋根、一部を朱で塗られているが全体は素木でそのバランスが良い。総門と本堂も同時期の竣工で県指定。 |
竣工時はかなり華やかだったと思える彩色が残る。絢爛たる彫刻が残る社殿は市内にはほとんど無く、貴重な遺構である。 |
当初は平屋だった建物を後に増築している。度々改修が行われており、農家民家の素朴さより大正モダン的な要素が濃い民家である。 |
金唐紙を使った襖、釘隠しの花鳥をあしらったデザイン等々見所のある住宅建築である。(旧平沼寛一郎邸) |
店蔵絹甚(旧小池家住宅) | 店蔵絹甚(旧小池家住宅) |
堀兼神社随神門 | 八幡神社本殿 |
飯能市本町 | 飯能市本町 | 狭山市大字堀兼2220 | 狭山市入間川3-6-14 |
竣工/明治37年(1904) | 竣工/明治37年(1904) | 竣工/江戸後期以前 | 竣工/享和2年(1649/江戸前期) |
★市指定文化財 | ★市指定文化財 | ★市指定文化財 | ★市指定文化財 |
土蔵造りの店蔵で、ほとんど改変されていない。飯能を代表する産業であった絹関連の買継商だった。外観の特徴としての軒の出桁造りや卯達が挙げられる。 |
二階建ての店蔵で、木造二階建ての主屋があり、中庭を介して奥に二階建ての地蔵がある。土蔵の竣工は江戸後期。 列島古建築紀行に掲載 |
桁行6.85m、梁間4.12m、入母屋造、八脚門。随身とは平安時代以降に上皇や貴族が外出の折に武装して警護に当たった護衛官のこと。随神とも書かれる。二神像も市文化財。
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入母屋造、唐破風向拝、千鳥破風付入口。透かし彫りと浮彫りの両技法を使い分けた彫刻が埋め尽くされた華やかな社殿である。作者は上野国(群馬)の鏑木半二邦高である。 |
蓮華院観音堂 | 高倉寺観音堂 |
高麗家住宅 | 大宮神社 |
入間市春日町12-9-1 | 入間市高倉3-3-4 | 日高市大字新堀850 | 入間郡越生町上野1732 |
竣工/天保6年(1835) | 竣工/室町時代初期 | 竣工/江戸前期 | 竣工/文久3年(1853/江戸末期) |
★市指定文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★町指定文化財 |
蓮花院は、黒須小学校の近くにある。蓮花院観音堂は記録によれば天保6年に再建されたもので、総けやき、寄棟造りの建造物である。また、内陣の格天井には江野梅青(東松山出身)の手による花鳥の色彩絵が描かれている。 | この観音堂は、室町時代初期に建立されたと推定される。もとは飯能市白子の長念寺観世音宝殿であったが、延享元年(1744)光昌山高倉寺の第五世白翁亮清が譲り受けて移築したものである。 |
高麗神社の神職を勤めてきた高麗家の住居。入母屋造、桁行7間半(14.3m)、梁間5間(9.5m)。間取りは古四間取りで、奥座敷、21畳の表座敷、勝手とへや、土間から成る。高麗神社に隣接。 |
優れた彫刻に彩られた社殿。内陣には聖天像(町文)が御神体として安置される。 |
龍穏寺経蔵 | 龍ケ谷熊野神社 |
出雲伊波比神社本殿 | 出雲伊波比神社本殿 |
入間郡越生町大字龍ケ谷452 | 入間郡越生町大字龍ケ谷452 | 日高市大字新堀850 | 入間郡越生町上野1732 |
竣工/天保12年(1841/江戸後期) | 竣工/天保15年(1844/江戸後期) | 竣工/享禄元年(1528/室町後期) | 竣工/享禄元年(1528/室町後期) |
★県指定文化財 | ★ | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
三間方形造。漆喰壁に上州山之神村(現・太田市)の岸亦八による道源禅師入宋求法の彫刻がはめこまれている。華やかな建物である。入口の唐破風向拝天井の龍には江戸琳派の祖である酒井抱一の落款がある。 | 龍穏寺第三世住僧・泰叟如康が明応元年(1492)に寺の境内鎮守として創建し、六世が再建したと伝わる。山奥にも拘わらず細密且つ華麗な彫刻に覆われた社殿である。 |
起源は日本武尊の東征に起因する。平安時代に編纂された延喜式神明帳のなかで武蔵国入間郡五座の筆頭にあげられており、古来より格式の高い神社であった。鎌倉時代以降、武士の信仰も集めた。 |
源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、また、大永7年の焼失後、翌には、毛呂三河守・藤原顕繁が再建しました。現在の本殿はこの再建時のもので一間社流造、県内最古の神社建築であり、一間社流造、檜皮葺。県内最古の神社建築。 |
2020.01.26 12.20修正