奈良県

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長谷寺登廊 長谷寺本堂 長谷寺仁王門 文殊院本堂
桜井市大字初瀬731-1 桜井市大字初瀬731-1 桜井市大字初瀬731-1 桜井市阿部645
竣工/慶安3年(1650/江戸前期) 竣工/慶安3年(1650/江戸前期) 竣工/明治27年(1894) 竣工/1665(寛文5年)
★国指定重要文化財 ★国宝 ★国指定重要文化財 ★市指定文化財
長谷寺は真言宗豊山派の総本山である。登廊は百八間、399段、上中下の三廊に分かれてる。本堂と同時期の竣工だが、火災により上登廊下だけ残った。中、下登廊は明治の再建だが当時の様子を伝えるものとして国重文に指定されている。 本堂は本尊を安置するための正堂と参拝用の礼堂と降筒を繋ぐ相の間で構成される。正堂は桁行7間、梁間4間、入母屋造、で周囲に裳階が付く。礼堂は桁行4間、梁間9間入母屋造り、妻入で左右に千鳥破風が付き極めて複雑な表情である。 現在の建物は明治二十七年(1894)の再建。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆。



寛文五年(1665)に再建された元安倍寺満願寺の本堂。七間四面の入母屋造りの本瓦葺に礼堂が附いており、現在は奥に文殊菩薩を安置する大収蔵庫がある。獅子に乗る文殊菩薩は快慶の作で国宝になっている。善財童子像のほか3体の仏像も国宝。

 

談山神社本殿 談山神社十三重塔 宇太水分神社本殿 笹岡家住宅主屋・表門
桜井市多武峰319 桜井市多武峰319 宇陀市菟田野区古市場245 宇陀市大宇陀区藤井477
竣工/嘉永3年(1850) 竣工/享禄5年 (1532) 竣工/元応2年(1320/鎌倉後期) 竣工/寛永年間(江戸前期)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国宝 ★国指定重要文化財
談山神社は中臣鎌足と中大兄皇子が乙巳の変の相談をした山から付けたという。藤原鎌足公をお祀りする本殿は、もと聖霊院、大織冠社、多武峰社とも称した。三間社隅木入春日造の豪華な様式で極彩色 模様や、花鳥などの彫刻によって装飾されている。 藤原鎌足の追悼のために、子供の定慧、不比等に よって建立された。 現存の塔は、享禄5年の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一。 唐の清涼山宝池院の塔 を模して建てられたと伝えられている。 高さは約17メー トルあり、屋根は伝統的な檜皮葺きである。 五棟の社殿が横一列に並びそのうちの三棟が国宝指定である。三棟はいずれも一間社、隅木入春日造、檜皮葺である。正面から見ると入母屋造のように見える。隅木入春日造としては現存最古の社殿である。春日大社本殿は正面に庇を付けるが隅木はない。 中世以降に藤井を中心とした地域の大庄屋を務めた家柄。建物の西側半分は土間とウマヤで東側は居室部である。桁行17.5m、梁間12.4m、入母屋造、茅葺。表門は文化4年(1807)の建築。


 

  
室生寺金堂 室生寺五重塔 室生寺本堂(灌頂堂) 室生寺弥勒堂
宇陀市室生区室生宇陀市室生区室生 宇陀市室生区室生 宇陀市室生区室生
竣工/平安前期 竣工/平安前期 竣工/延慶元年(1308/鎌倉後期) 竣工/鎌倉前期
★国宝 ★国宝 ★国宝 ★国指定重要文化財
正面5間、梁間5間、寄棟造、こけら葺。正堂部分は平安前期建立。懸造りで前に張り出した部分を床下の長い束で支える礼堂は寛文12年(1672/江戸前期)に全面的に建て替えられている。 高さ16mの朱塗りの塔。法隆寺塔に次ぎ国内二番目の古塔でかつ屋外にある木造五重塔では国内最小である。この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。 桁行5間、梁間5間、灌頂堂とも称される。密教儀式を行うための堂。室生寺は中世を通じ興福寺末であったが、江戸時代の元禄7年に護持院隆光の拝領するところとなり、護国寺末の真言寺院となった。 桁行3間、梁間3間、入母屋造、こけら葺。江戸時代に大幅に改造されている。



 

片岡家住宅 宇陀松山の町並み 宇陀松山の町並み 瑞花(ずいけい)院本堂
宇陀市大宇陀区田原938 宇陀市松山  宇陀市松山 橿原市飯高町371
竣工/寛文12年(1670) 竣工/ 竣工/ 竣工/嘉吉3年(1443/室町中期)
★国指定重要文化財 ★伝統的建造物群保存地区 ★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財
江戸初期から代々近郊の九ケ村を束ねてきた大庄屋の家柄。主に年貢の割付や情報伝達などの諸事を担ったという。主屋は寛文12年、客間は天明2年、表門は天保3年の竣工。客間=御殿は大和郡山藩主が狩りに来た際に休息した場所で、屋根には「本陣」を意味する「本」の字がある。主屋も客間も入母屋造、茅葺。 安土桃山時代に、豊臣秀長の家臣によって宇陀松山城の城下町として整備された。その際に広さによって課される税を免除して有力な商人を誘致したため「間口も奥行も広い」町屋が作られたという。江戸時代以降の様々な時代の建物が残っている。「薬の舘(旧細川家住宅)」など見応えのある住宅が多い。 保存地区は,城山と宇陀川の間の通り沿いにある。戦国時代に整備された地割りが残る。江戸時代に幕府の天領となり、京都や奈良と伊勢をつなぐ交通の要衝として「松山千軒」と呼ばれるほど栄えた。地区の南端で宇陀川から引かれた水が通りの中心部の両側を走り,水の流れが独特な景観をもっている。 興福寺十六人衆の一人飯高氏の菩提寺で正式名称は祐禅山瑞華院吉楽寺という。方五間、寄棟造、向拝一間、本瓦葺。棟木銘から、室町時代中期、嘉吉3年の建立と判明している。瑞花院は始めは真言宗だが、江戸時代の中ごろに浄土宗に改宗している。中世密教形式の建築で国の重要文化財に指定されてる。

 

久米寺多宝塔 正蓮寺大日堂 称念寺本堂 人麿神社本殿
橿原市久米町502 橿原市小綱町14-8 橿原市今井町3 橿原市地黄町445
竣工/江戸初期 竣工/文明10年(1478/室町後期) 竣工/寛永18年(1641/江戸前期) 竣工/康永4年(1345/室町前期)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
雷火で焼失した前塔の代わりに京都・仁和寺から移築された禅宗様式の塔。昭和60年の修理で、部材からは建立当初の番付の他、解体移転時の番付が見つかったことから、移築が裏付けられた。京都風の多宝塔である。 桁行3間、梁間3間、寄棟造、本瓦葺。墨書から完成まで約30年を要していたとされるが、これは応仁の乱の動乱期にあったため一時中断されたとも考えられる。室町期の小規模な仏堂遺構として貴重である。 中世末、寺内町として栄えた今井町の核となった浄土真宗本願寺派の寺院。本堂は入母屋造、本瓦葺の大きな建築だが、視覚的には一般的本堂建築と変わらない。平成の解体修理で部材の墨書で寛永18年の建立が判明した。 葛城市の柿本神社から分霊された古社。隅木入り春日造、檜皮葺。創建当時の屋根は厚板葺で隅木は無く後世の改修で現在の形になった。頭貫木鼻やそりの強い垂木などに南北朝時代の特徴をよく表している。

 

今井町の町並み 今井町の町並み 高木家住宅 河合家住宅
橿原市今井町 橿原市今井町 橿原市今井町1-6-9 橿原市今井町1-7-8
竣工/ 竣工/ 竣工/江戸末期 竣工/江戸後期
★伝統的建造物群保存地区 ★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
東西約600m、南北約310mの地区内には全建物数約760戸のうち約500軒の伝津的建造物が存在する。これは地区内としては日本一である。国重文9件、県指定3件、市指定5件の17件文化財指定である。称念寺が町の興りと言われ、農民などを門徒化してここを拠点に一向宗の布教活動をした。 後に諸国の浪人や商人が集められ町を形成した。このような町を寺内町という。戦国時代には盗賊、他衆派からの攻撃に備えて周辺に濠や土塁を築いた。江戸中期頃には今井千軒と言われ程発展し、幕府は惣年寄りや町年寄りを置き、警察権・自治特権もも与えた。そのため町独自の掟も作られた。 中尊坊通りの東端にある。切妻造、本瓦葺。1、2階ともに二列6室の間取りである。。2階は一部を除き、全体が部屋であって、天井は棹縁(さおぶち)で、畳敷きの居室としている。幕末期の上層町屋の好例である。


今井町では比較的早い時期の二階建町家で豪商の片鱗が窺える住宅である。東妻入母屋造、西妻切妻造、南東土庇付、本瓦葺。河合家は江戸時代の初期に上品寺村より移ったという。古くより「上品寺屋(じょうぼんじや)」の屋号で酒造業を営んでおり、現在も造り酒屋を営業している。

 

旧米谷家住宅 豊田家住宅 今西家住宅 上田家住宅
橿原市今井町1-10-11 橿原市今井町3-8-12 橿原市今井町3-9-25 橿原市今井町4-4--25
竣工/江戸中期 竣工/寛文2年(1662/江戸前期) 竣工/慶安3年(1650/江戸前期) 竣工/延享元年(1744/江戸中期)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
屋号を「米忠」という金具商だった家。江戸時代5代目・忠五良の時代にかなりの繁栄があったとみられ「ざしき」を増築、嘉永2年(1849)には内蔵、蔵前座敷も増築している。主屋内部の土間には煙返しなどあり農家風の印象が強い。 元は木材商らしく二階正面の壁に丸に木の字の紋を持つ豪壮な家である。入母屋造、本瓦葺で軒は高く二階の軒は出桁造である。内部は東側が土間とミせで、居室部は6間取り。納戸の敷居が高く「敷居が高い」の語源になったといわれる。 惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権を持っていた。白漆喰塗籠造、大棟の両端に段違いに小棟を付け、入母屋造の破風を前後喰い違いに見せた城郭風建築。今井町最古で国内では3番目に古い民家である。棟札も国指定。 今西家、尾崎家と共に惣年寄を勤めた家柄で、江戸初期には酒造業も営んだ経済力を持っていた。入母屋造、本瓦葺。二階の軒が低く、内部は北川に土間、南側に整形6室取り。

 

高取の町並み 高取の町並み 榮山寺八角堂 榮山寺
高市郡高取町 高市郡高取町 五條市小島町503  五條市小島町503 
竣工/ 竣工/ 竣工/奈良前期 竣工/天文22年(1553/室町後期)
★国宝 ★国指定重要文化財
観光地として良く知られる「明日香」の南に位置するあまり知られていない昔町。古代から主要街道沿いに位置し、中世には壺坂寺の門前町として、江戸時代は豊臣秀長の家臣・本多利休の一万五千石の城下町として繁栄した。町人宅、武士宅の長屋門など今も商家や町屋が長く軒を連ねている。
町並みは旧道筋に沿って高取城址に向かった斜面に形成されている。観覚寺から下土佐、上土佐、町人町、下子島と続く。日本最強の城と呼ばれる高取城はかなりの高所で登るのはきつい堅固な山城である。しかし平素は不便極まりないので麓に陣屋を作った、これが現在の上土佐地区の始まりである。
藤原仲麻呂が両親・藤原武智麻呂夫妻の供養のために建立した。東大寺正倉院に残る文書に天平宝字7年12月20日付で「造円堂所牒」の記述があり、この「円堂」はこの八角堂を指すものであると思われている。内陣の柱や天蓋には壁画が施されているなど天平建築の中でも法隆寺夢殿と並ぶ遺構である。 栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年に創建したと伝わる。戦国時代末期には戦火により、その伽藍は八角堂を残して焼失したが、その後室町末期に再建され現在に至る。金堂又は薬師堂とも呼び木造薬師如来坐像(国重文)両脇侍造を安置する

 

五条新町通り 五条新町通り 栗山家住宅 西田家住宅
五條市新町 五條市新町 五條市五条1-2-8 五條市西吉野鹿場6
竣工/ 竣工/ 竣工/慶長12年(1607/桃山) 竣工/江戸前期
★伝統的建造物群保存地区 ★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
吉野川の舟運で栄えた宿場町である。本陣も置かれ、町の中心にある交差点は「本陣交差点」と呼ばれる。新町には二カ所の舟着場があったという。ここから旧紀伊街道の伝統的家並が始まる。本町、新町の街道沿いには塗籠造り、千本格子の家が連なる。五條には江戸時代の町家が80軒近く現存している。 建築年代の明確な民家としては日本最古である。様式が古い民家で、推定や年代不明のものあるが、栗山家のように建築年代が明白でない。建築面積の4割を占める広い土間と床上整形6室から成っている。。現状は前後に庇を付けたり、間仕切りを開放的にするなどの改造がある。内部非公開。
桁行12.6m、梁間9.2m、入母屋造、鉄板仮葺(元は茅葺)。表側は出の間と客間の二室、背面はおいえ、中納戸、奥納戸の三室。出の間の中納戸との仕切りには片引戸の帳台構えが残っているのが珍しい。柱はチョウナ仕上げ。茅葺復元が望まれる。


 

2020.04.28

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