奈良県

奈良市内及び近郊方面)

南部奈良公園法隆寺はこちらから

東大寺転害門 元興寺極楽坊本堂 十輪院本堂 新薬師寺本堂
奈良市雑司町406-1 奈良市中院町11 奈良市十輪町27 奈良市高畠町1352
竣工/奈良時代 竣工/寛元2年(1244/鎌倉前期) 竣工/鎌倉前期 竣工/奈良時代
ks8★国宝 ★国宝 ★国宝 ★国宝
境内西北、正倉院の西側にあり、八脚門の形式をもつ堂々とした門。平重衡の兵火、三好・松永の戦いの2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。鎌倉時代の修理で改変されているが、基本的には奈良時代の建物である。 蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の寺院・法興寺が平城京内に移転した寺院で、現在は当寺と奈良市柴新屋町の元興寺に二分されている。極楽坊本堂は鎌倉時代に飛鳥時代の材を使い、東室南階大房(僧坊)の三房(室)分を方六間の聖堂に改造したもので、寄棟造、屋根は行基葺瓦。 この建物は石仏龕を拝むための礼堂として建てられた。正面間口を広縁とし蔀戸を用いている。軒周りは垂木を用いず厚板で軒を支えている。軒や床が低く仏堂というより住宅建築の趣がある。柱間の中備えに飾られる蟇股は鎌倉時代のものの中で優美な形状で有名である。 新薬師寺は宝亀11年(780)に西塔への落雷により発生した火事でほとんどの堂宇を焼失した。現在の本堂は類焼を免れた食堂又は檀院を改修したものである。桁行5間、奥行3間、周囲1間の庇付、入母屋造、本瓦葺。本尊薬師如来坐像と眷属の十二神将は秀逸な彫像として知られる。

 

旧柳生藩家老屋敷 旧柳生藩家老屋敷 ならまちの町並み ならまちの町並み
奈良市柳生町155-1 奈良市柳生町155-1 奈良市中院町 奈良市中院町
竣工/嘉永元年(1848/江戸末期) 竣工/嘉永元年(1848/江戸末期) 竣工/ 竣工/
★県指定文化財 ★県指定文化財
柳生藩の財政再建を成した家老(小山田主鈴隠居宅)の隠居所。大規模な石垣は天保12年は尾張国の石工が築いたといわれる。1964年に作家・山岡荘八の所有となりここで執筆がされた。 小山田主鈴は、福島県の白河郷士の子として生まれ、26歳の時、柳生家に足軽として仕官し、才腕を認められて重職に栄進し、奈良に移り、大坂や南都の柳生藩蔵屋敷の勝手方奉行を勤めた。 奈良町という町名はなく、漢字の「奈良町」は江戸時代から存在していた奈良の町域を指す。現在の奈良観光には欠かせない重要で有名な町並みで、元興寺周辺の町並みのことである。 「ならまち」といわれる地区は元興寺や十輪院、御霊神社、庚申堂などの社寺、江戸末期から明治にかけての古い町屋、飲食店、資料館、などの立ち並ぶ歴史的町並みのことである。

 

般若寺楼門 般若寺本堂 般若寺経蔵 般若寺鐘楼
奈良市般若寺町221 奈良市般若寺町221 奈良市般若寺町221 奈良市般若寺町221
竣工/鎌倉中期 竣工/1667(寛文7年) 竣工/鎌倉時代 竣工/1694(元禄7年)
hn1★国宝 hn2★県指定文化財 hn3★国指定重要文化財 hn4★
叡尊が般若寺を復興したその頃に築かれたものとされる。この建築はその大仏様が和様と融合する過渡期、鎌倉時代中期頃のものである。楼門の組物は建築の構造に全く関係が無く、内部はほぼ箱型に簡略化された構造である。 般若寺は西大寺流の真言律宗で境内西側を京街道が通る。本堂は、室町時代末期の永禄10年に三好・松永の戦いで焼失した。寛文7年に妙光院高栄と妙寂院高任の勧進によって再建された。正面5間、側面4間、入母屋造り。 鎌倉再興期の建立とみられる建築当初は土間の前面開放の形式で建てられ当初の使用目的が不明。鎌倉時代末期に経蔵に改築されている。南宋から元の時代に大普寧寺で改版された「元版一切経」で般若寺に現存している。 本堂の脇に鐘楼がある。元禄の建立であるが土地を整備する時に石室が出て、忍性が埋設した宝珠が出たという。宝珠は失われたがその時の納入箱は今もあるという。


 

  
秋篠寺本堂 法華寺本堂 海龍王寺西金堂 海龍王寺五重小塔
奈良市秋篠町757奈良市法華寺町882 奈良市法華寺北町897 奈良市法華寺北町897
竣工/鎌倉時代 竣工/慶長6年(1601) 竣工/奈良時代 竣工/奈良時代
★国宝 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国宝
保延元年に火災で焼失し、現在の建物は鎌倉時代に堂宇の遺材で再建されたもの。創建当初の「講堂」の歴史を引き継ぎ、様式は奈良時代の建築に近くなっている。秋篠寺で最も有名な仏像は、伎芸天像で「東洋のミューズ」との称賛されている。 平城宮跡の隣にある。聖武天皇の皇后である光明皇后の発願により、総国分尼寺として創建された。豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。再建にあたっては、地震で倒れた前身建物の2棟の部材が使われれている。堂内の本尊十一面観音像は国宝。 奈良時代の創建時から残されてきたもので、鎌倉時代の補修で頭貫の部分が大仏様となり、昭和の解体修理をへて当初の構造とは一部で違いもあるが、奈良時代の部材のが多く残されており、奈良時代の金堂建築として数少ないものの一つ。 創建当時から西金堂内に安置されており、細部は垂木を地円飛角という地垂木を丸、飛檐垂木を四角に製材されたものを使う、天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている。塔の建築様式の発展段階をたどる上にも重要である。

 

唐招提寺金堂 唐招提寺講堂 唐招提寺鼓楼 唐招提寺礼堂・東室
奈良市五条町13-46 奈良市五条町13-46  奈良市五条町13-46 奈良市五条町13-46
竣工/天平宝宇3年(759) 竣工/天平宝宇4年(760) 竣工/仁治元年(1240) 竣工/1284(弘安7年)
★国宝 ★国宝 ★国宝 ★国指定重要文化財
奈良時代につくられた寺院金堂の唯一の遺構である。大棟の左右に鴟尾を飾る。西側の鴟尾は創建当初のもので、東側は鎌倉時代の補作であったが、平成の大修理で新しいものに替わった。堂の正面1間を吹き放し、8本の太い円柱が並び、壮観である。 平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、平城宮の改修に伴って移築された。東朝集殿は壁や建具のない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが入母屋造とし建具を入れている。鎌倉時代に改造されたが、宮廷建築の唯一の遺構として貴重である。 金堂・講堂の中間の東側にある。西側にある礼堂・東室が礼拝施設になっている。小規模な楼造(2階建)の建物。入母屋造、本瓦葺き。鼓楼と称するが太鼓はなく、鑑真和尚が唐から請来した仏舎利を安置しており、そのため舎利殿といわれる。 鼓楼の東に位置する南北19間の細長い建物の南側8間が礼堂、北側10間が東室、その間の1間は、馬道(めどう)と呼ばれる通路がある。手前の礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂で、奥の東室は僧坊として1棟になっている。

 

薬師寺東塔 霊山寺本堂 霊山寺三重塔 菊家家住宅
奈良市西ノ京町457 奈良市中町3873 奈良市中町3873 奈良市月ケ瀬桃香野4907
竣工/天平2年(730) 竣工/1283(弘安6年) 竣工/1283(弘安6年) 竣工/江戸中期
★国宝 ★国宝 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。一見六重の塔に見えるが、下から奇数のの屋根は裳階であり、構造的には三重の塔である。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙には飛天像が透かし彫りがあり、高い工芸技術を現代に伝えている。 桁行五間、梁間六間、一重入母屋造、本瓦葺で一間の向拝がある。奥行きが一間深くなっている。霊山寺の本堂は、和様手法に比較的忠実な中世密教本堂の典型例として知られており、同時期に同じような規模で建てられた長弓寺本堂と同じく、国宝に指定されている。 谷をはさんで本堂とは反対側(南側)の斜面上にある。本堂と同時期のものと推定され、和様で組物は三手先。初層内部の来迎壁(仏壇背後の壁)の表裏や長押には五大明王図、仏涅槃図などの極彩色壁画が描かれている。鎌倉末期から南北朝時代の制作と想定されている。 月ヶ瀬梅林で有名な地域にある。農家と旅籠屋も兼業していた。「菊家」はその際の屋号としていた。入母屋造、茅葺。屋根は大きく急勾配である。内部は「ざしき」「しものま」「なんど」の三間取り形式。土間に三連のカマドがありその横に一畳程の女中部屋がある。

 

長弓寺本堂 高山八幡宮本殿 百濟寺三重塔 富貴寺本堂
生駒市上町4445 生駒市高山町12679-1 北葛城郡広陵町百済1411 磯城郡川西町大字保田33
竣工/弘安2年(1279/鎌倉後期) 竣工/元亀3年(1572/室町後期) 竣工/鎌倉後期 竣工/至徳5年(1388/室町前期)
★国宝 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
桁行5間、梁間6間、入母屋造、檜皮葺。和様に大仏様を取り入れた新和様式の代表例である。内部は内陣と外陣共に3間づつで菱欄間と引違格子戸によって隔てられている。外陣の中央に架けられている虹梁は三間分の長さを持つものである。 天平21年に東大寺の大仏建立時、守護神として宇佐から八幡神が迎えられ、大和入りした場所がこの高山八幡宮といわれている。三間社流造、檜皮葺。正当な様式を持つ社殿で竣工年が明らかであり、この時代の細部手法を良く示している。 寺は三重塔と小さな本堂を残すのみの無住寺。塔は方三間三重塔、本瓦葺、高さ23.27m。明治維新時には無檀無住のため廃寺となりす。明治37年に至って真言宗高野派として再興され、現在は三重塔、本堂、中之坊(社務所)が残されている。 隣接する六県神社の神宮寺である。間口5間、奥行4間、寄棟造、瓦葺。建立年代を直接示す資料はないが、内陣柱の墨書には至徳5年と記されており、建築の形式から見て同年のものと思われる。木造釈迦如来坐像、木造地蔵菩薩立像も国重文である。

 

石上神宮拝殿 石上神宮出雲建雄神社拝殿 長岳寺旧地蔵院(庫裏) 長岳寺楼門
天理市布留町384 天理市布留町384 天理市柳本町508 天理市柳本町508
竣工/鎌倉前期 竣工/1300(正安2年) 竣工/寛永7年(1630/江戸前期) 竣工/平安末期
★国宝 is1★国宝 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
拝殿は平安時代末期の永保元年、白河天皇が新嘗祭を行う神嘉殿を移築したとされるが鎌倉時代に宋より伝わった大仏様の貫や木鼻などが見られることから、鎌倉時代初期に建てられたと考えられている。 の立派な割拝殿は桁行五間、梁間一間。割拝殿とは、中央一間に馬道と呼ばれる土間を設けられた拝殿の事である。鎌倉後期の正安2年(1300)の建造と、割拝殿の中では現存最古である。 かつては48あった塔頭の中で唯一残った旧地蔵院の遺構。屋根は杉皮の大和葺、唐破風の玄関は檜皮葺。内部は書院造り。解体修理のおり棟札が見つかり、庫裏、本堂ともに建立年代が判明した 。 当寺創建当初の唯一の建物である。かつては上層に鐘が吊るされていたので鐘楼門と呼ばれる。日本最古の鐘門である。


 

當麻寺仁王門 當麻寺金堂 當麻寺講堂 當麻寺東塔
葛城市當麻 葛城市當麻 葛城市當麻 葛城市當麻
竣工/延享元年(1744) 竣工/1268(文永5年) 竣工/1303(乾元2年) 竣工/奈良時代
tm1★県指定文化財 tm6★国指定重要文化財 tm7★国指定重要文化財 tm8★国宝 
仁王門は竹内街道から當麻寺に入る道の突き当たりにある。境内の東大門にあたる。建立年代は棟札があり、「上棟延享元甲子載七月吉辰」とあり、江戸中期の建築。
曼荼羅堂(本堂)が出来るまでは當麻寺の中心の建物であった。建立年代は治承4年兵火後 、鎌倉時代に再建再建された。境内の軸線は金堂、講堂が南北になっている。 高い乱石積の基壇上に南面して建つ、正面7間、奥行4間、寄棟造、本瓦葺の建物である。墨書により、鎌倉時代末期の乾元2年に大工・藤原助友によって建立された。 東塔は、具体的な建立の時期は不明ではあるが、その様式より奈良時代末期に建てられたと考えられており、當麻寺で最も古い建造物となっている。上部が2間である

 

当麻寺曼荼羅堂 当麻寺東塔・西塔 竹内の町並み 竹内の町並み
葛城市當麻1263 葛城市當麻1263 葛城市竹内 葛城市竹内
竣工/1161(永暦2年) 竣工/天明3年(1784/江戸後期) 竣工/ 竣工/
★国宝 ★国宝
曼荼羅堂は、奈良時代に建てられた天平様式の二重虹梁蟇股の架構など、切妻造建築に用いられていた建築の古材を利用して、平安時代前期に建立された。その後、前身堂を内陣にして、平安後期に外陣を付け足す形で大規模な改築を加えて、棟上されたことが、永暦2年の棟木の墨書より判明した。 創建が古代まで遡る寺院の中で、東塔と西塔が対で残る唯一の例である。個々の古塔としても建築的な評価は高く、国宝に指定されている。東塔と西塔の違いは遠くから見ても判別できる。東塔は初重以外は柱間は2間である。建物は偶数になると中心に柱がくるので避けられる。西塔は3間になっている。
大和と河内を結ぶ日本最古の官道の町である。1400年前の日本書紀に、推古天王二十一年(613)、難波より飛鳥京まで大道を置くと記されている。飛鳥時代、シルクロードの東の終点ともいわれ、中国や朝鮮の文化がもたらされた古道で、時代を経て竹内街道・横大路」と呼ばれるようになった。 具体的には大阪の難波から河内を経て竹内峠を越え、当麻町の長尾神社に至る約30kmの道である。その葛城市竹内は、金剛山地にある竹内集落は竹内峠に向かう街道に面してひっそりと佇んでいる。坂の町で、狭い街道沿いには今も古い大和棟造りの家も見える。他は厨子二階塗籠造りの虫籠窓を持つ家が多い。

 

2020.04.18  12.20追加修正

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