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善光寺本堂 善光寺山門 東光寺仏殿 塩澤寺地蔵堂
甲府市善光寺町3-36-1 甲府市善光寺町3-36-1 甲府市東光寺3-7-37 甲府市湯村3-17-2
竣工/寛政8年(1796/江戸後期) 竣工/明和4年(1767/江戸後期) 竣工/室町時代 竣工/江戸初期
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
浄土宗の寺院。正式名称は定額山浄智院善光寺。各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺とも呼ばれる。本堂は正面梁間23.6m、側面桁行約38m、総高27mと焼失(宝暦4)前のものより小さくなっているが、それでも東日本では最大級とも言われる木造建築物。単層裳階付の撞木造。 本堂より先に完成した山門は、重層の楼門で、桁行16.88m、梁行6.75m、棟高15m、和様と唐様の折衷様式。大工棟梁は石川久左衛門が造営した。宝物館にある頼朝像は最近、黒田日出男氏の「源頼朝の真像」で有名になった。内背面に文保3年の銘文があり、最古の頼朝像である。 東光寺仏殿は、唐様と呼ばれる中国の建築様式を模して建てられた入母屋造りで一間の裳階が付く。竣工年代は資料がないので建築様式などからの推定。方三間、裳階付で裳階柱は面取り角柱、入母屋造桧皮葺。密教寺院であったが鎌倉時代に渡来僧の蘭渓道隆が禅宗として再興した。 「厄地蔵」の名で親しまれている真言宗智山派。開創、大同3年弘法大師の開山。承平3年空也上人が中興。堂の建立年代は定かではない。木鼻彫刻の細部様式から室町末期と推定されたが、近年の研究では江戸初期と推定されている。桁行四間、梁間三間、一重寄棟造、茅葺形銅板葺。

 

穴切大神社本殿 穴切大神社随神門 八代家住宅 旧平田家住宅
甲府市宝2-8-5 甲府市宝2-8-5 北杜市明野町 北杜市小淵沢町7761
竣工/桃山時代 竣工/寛政6年(1794 江戸後期) 竣工/文化5年(1808/江戸後期) 竣工/江戸中期
★国指定重要文化財 ★市指定文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
桃山時代に造られたとされている。建築の様式は一間社流造。正面には美しい金具をつけた両開きの扉がある。前と両側側面には、欄干付きの板縁が巡らされている。桃山時代の色彩と特徴を持つ彫刻が配されている。 随神門は三間一戸、桁行3間、張間1間、八脚楼門形式、入母屋、銅板葺、外壁は真壁造り板張り、上層部高欄付、下層部随神安置。棟梁は下山流竹下源蔵、彫刻は立川流和四郎富棟、江戸後期に建てられた秀作として評価が高い。 文化年間の上手村は戸数280余、、人口1100名ほどで八代家を含む五人の名主によって民政が敷かれていた。建物には良質な建材が使用され、改造が少なく当地域の江戸末期の代表的な民家の構造をよく示す。整形四間取平面。 郷土博物館敷地。武田信玄の家臣・山田但馬守の後裔と伝わる旧家で村向村の名主を務めた上級農家。入母屋、茅葺、開口部が少なく軒先が低い、土間のが広い、柱の仕上げがチョウナ、馬屋の間仕切が掘立て柱などの特徴を持つ。

 

諏訪神社本殿 諏訪神社本殿 海岸寺観音堂 海岸寺観音堂
北杜市白州町下教来 北杜市白州町下教来 北杜市須玉町上津金1222 北杜市須玉町上津金1222
竣工/天保15年(1844/江戸後期) 竣工/天保15年(1844/江戸後期) 竣工/慶応元年(1865/江戸末期) 竣工/慶応元年(1865/江戸末期)
★県指定文化財 ★県指定文化財 ★市指定文化財 ★市指定文化財
棟梁・立川和四郎富昌の作品である。富昌は初代・和四郎富棟の息子で父よりも精巧な表現で知られる。本殿は覆屋内にある。一間社、流造り、正面に唐破風付向拝、こけら葺屋根。身舎壁面の「狸カと酒壷」など素晴らしい。 脇障子の異様に手足の長い神様の彫刻「手長足長」は珍しく価値の高いものである。この時期、立川富昌は海岸寺の観音堂など他に11ほど、多くの現場に携わっていたといわれ、地元の大工の関与が多かったとおもわれる。 寺伝によると、養老元年、行基が庵を建立したのが海岸寺の創建とされている。応安年間に律宗から臨済宗へと改宗した。立川和四郎冨昌らによって弘化2年から約20年の歳月を費やして竣工した立川流の代表作の一つである。
細部は優れた彫刻で埋められ、中でも正面にある「アワとうずら」の彫刻が注目のものである。臨済宗妙心寺派で、寛文7年に即応宗智和尚が中興した。諏訪の名工・守屋貞治が制作した100体の観音菩薩の石仏がある。

 

義光山矢の堂 台ケ原宿町並み 旧安藤家住宅 旧安藤家住宅
北杜市小淵沢町2139 北杜市白州町台ケ原 南アルプス市西南湖4302 南アルプス市西南湖4302
竣工/安永9年(1780/江戸中期) 竣工/ 竣工/宝永5年(1708/江戸中期) 竣工/宝永5年(1708/江戸中期)
★市指定文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
天仁年間、新羅三郎義光が八ヶ岳中腹に一宇を建立し、三井寺の矢の観世音像を勧請「義光山矢の堂」と称す。現在の観音平という場所である。安永3年に堂宇焼失し、再建された。入母屋造、茅葺。 江戸時代、台ケ原宿は甲州街道の宿場町として栄えた。通りにはつるや旅館や金精軒など当時の古い建物が軒を連ねている。通りには本陣跡の石碑が残り、なかでも酒蔵の北原家が有名だ。
武田家家臣を祖先に持ち江戸時代は西南湖村の名主を務めた旧家。1300坪平を越す広大な敷地に屋根塀を廻らせ西寄りに長屋門(天明頃)がある。式台付玄関、中座敷、奥座敷、居間、納戸など。 主屋には式台玄関があり、中門から出入りする。南蔵(元治元年頃)、北蔵(安永2年頃)、文庫蔵(弘化2年頃)、東寄りに茶室(万延2年の建築)、庭園、池を配している。

 

長谷寺本堂 武田八幡宮本殿 光照寺薬師堂 久遠寺三門
南アルプス市榎原442 韮崎市北宮地1185 甲斐市双葉町岩森1622 南巨摩郡身延町身延3567
竣工/大永4年(1524/室町後期) 竣工/天文10年(1541/室町後期) 竣工/室町後期 竣工/明治34年(1907)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国登録文化財
真義真言宗知山派の古寺。開創は天平年間で行基が十一面観音彫刻したのが始まりと伝えられる。本堂は観音堂とも呼ばれ、方三間、一間向拝付、入母屋造、檜皮葺。厨子は室町末期の作。 弘仁13年(822)創建という古社。武田氏の氏神として尊崇をあつめた神社。三間社流造桧皮葺の本殿は武田信玄、義信父子が再建した。この造営は国主となった晴信の最初の事業として建立した。 信玄の父、武田信虎により再建。方三間、宝形造、銅板葺き。内部構造に優れたものがある。堂内の厨子も同時代のもので附指定。織田信長の兵火で被害を受け、薬師堂だけが奇跡的に残る。 身延山は佐渡流刑を終えた日蓮を迎えた所である。三門は本坊域への参道入口に南面してたつ大門。五間三戸の二階二重門。上層左右に花頭窓を設ける。壮大且つ緻密な近代禅宗様二重門の好例である。

 

最恩寺仏殿 門西家住宅  赤沢の集落 赤沢の集落 
南巨摩郡富沢町福士2350 南巨摩郡下部町湯之奥 南巨摩郡早川町赤沢   南巨摩郡早川町赤沢
竣工/室町中期 竣工/江戸中期 竣工/  竣工/ 
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★重要建造物群保存地区  ★重要建造物群保存地区 
山梨県の最南端、静岡県境に接する南部町の山里にある臨済宗の寺。仏殿は典型的な禅宗様式、桁行一間、梁間一間、一重裳階付、入母屋造銅板葺。花頭窓、弓欄間など、禅宗様仏殿として貴重な遺構である。列島古建築紀行に掲載 門西家は室町時代に土着した郷士や地侍的な立場の家柄で、名主・関守を勤めた家柄。建物は、桁行14.67m、梁間9.19m、入母屋造、茅茸。江戸中期初頭の建立と見られる広間型の形式で規模が大きく木割が太、荒削りである。 日蓮宗の総本山身延山と霊山七面山をむすぶ身延往還の途中に位置する宿場集落。 古来より諸国から訪れる山岳信仰の参詣客を迎える講中宿場で、海抜五百㍍の山間にある。ピーク時には年間の宿泊客が30万人を数えた。  その繁栄も昭和初期には道路の整備などで七面山に直接行くバスの便もでき終焉する。講中宿の特徴は縁側が広く大勢が一度にそこから室内にあがる、つまり広い玄関としての役割がある。軒には多くの講中札が並んでいる。

 

2020.02.17   08.22 12.20 2021.5.10修正

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