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榛名神社本殿・拝殿 | 榛名神社国祖社 | 一宮家住宅主屋・長屋門 | 高崎城乾櫓 |
高崎市榛名山町849 | 高崎市榛名山町849 | 高崎市榛名山町 | 高崎市高松町 |
竣工/文化3年(1806/江戸後期) | 竣工/享保年間 | 竣工/江戸後期 | 竣工/17世紀末頃 |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国登録文化財 | ★県指定文化財 |
1400余年前に第三十一代用明天皇の時代に創建されたという古社である。社殿は権現造の複合建築。目貫、海老虹梁など華麗な彫刻群に彩られて絢爛豪華な社殿である。格天井の花草飛龍の画は仙台藩絵師・根本常南。本社は御姿岩に接し岩奥に御神体を祀る。参道は奇岩、老木に覆われ、清流があり霊気に漲る。 |
●国祖社 竣工/享保年間入母屋造、正面3間、側面5間、向拝い1間付。榛名山西の御祖霊獄にあったもの。神仏分離以前は本持仏を安置し本地堂とも呼ばれた。●額殿 竣工/文化11年(1814/江戸後期)増築。入母屋造、銅板葺屋根。北面は国祖社に接続。本来は神楽の拝見所だが大小の太々神楽の扁額を掲げていることから額殿とも呼ばれる。 | 般若坊として榛名神社門前の宿坊で現在も営業している。長屋門は赤門と呼ばれている。この社家町には善徳坊(門倉家/江戸中期・国登録)も現存している。 |
高崎城の北西「戌井」の方角にあった櫓。県内現存唯一の城櫓。『高崎城大意』によると、「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし、二階も無く土蔵などの如くなるを、先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とあります。「先の城主」とは7代藩主安藤重博(1657~1695)のことと考えられているので、乾櫓は17世紀末頃に改築されたと推定されています。 |
倉賀野神社本殿 | 倉賀野神社本殿 | 一之宮貫前神社本殿 | 一之宮貫前神社楼門 |
高崎市倉賀野町1263 | 高崎市倉賀野町1263 | 富岡市一ノ宮1535 | 富岡市一ノ宮1535 |
慶応2年(1866江) | 慶応2年(1866) | 竣工/寛永12年(1635/江戸初期) | 竣工/寛永12年(1635/江戸初期) |
★市指定文化財 | ★市指定文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
一間社流造で正面及び背面に唐破風が付く。屋根は銅板葺。江戸時代後半に多い形。無彩色で様々な彫刻で軒周りを飾る。 |
造営建築関係の文書が保存されているので、建築年代が明確であり、同時期の神社様式を研究する際の指標となる重要な建造物である。 |
現在の社殿は三代将軍・家光の造営で、五代・綱吉による大規模修理で整った。本殿は貫前造と呼ばれる独特な造り。拝殿は方三間、入母屋造。共に華やかな彫刻で埋められている。 | 総門を潜った所から楼門に向かって下りる石段がある。いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置である。楼門は一間一戸の朱塗りの門。 |
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七日市藩藩邸 | 五料の茶屋本陣お東 | 旧安中郡役所 | 武士長屋 |
富岡市七日市1425-1 | 安中市松井田町五料564-1 | 安中市安中三丁目21番51号 | 安中市安中3-6-9 |
天保14年(1843/江戸後期) | 竣工/文化3年(1806/江戸後期 | 竣工/明治44年(1911) | 竣工/江戸後期 |
★ | ★県指定史跡 | ★ | ★市指定文化財 |
藩祖は加賀藩・前田利家の五男・利孝である。大阪夏の陣で利孝は武功を挙げ、元和2年に七日市の1万石の所領を得た。これが七日市藩の立藩である。藩庁の陣屋跡知は富岡高校だが、遺構として正面玄関1棟、中門1棟が現存する。 |
山を背にして中島両家の二軒の大きな家がある。地元では「お東」「お西」と呼ばれる。二軒で五料村の名主を勤めた。お東は西南を正面として間口13間半、奥行7間、総二階建、切妻造、土壁造り。お西もほぼ同じが、白壁の屋敷構えである。茶屋本陣が二軒となり合わせて並び昔の形態を維持していることは非常に稀有な事である。茶屋本陣とは大名の参勤交代や上級武士・公卿の昼食や喫茶のための休憩施設。 列島古建築紀行に掲載 | 明治11年に「郡区編成法」により碓氷郡役所が開庁した。現存する建物は明治44年に建てられたもので、郡役所廃止後は農業会などが使用していた。地方自治の歴史を示す貴重な建物として改修され、一般公開されている。 |
小藩だった安中藩では上流武士以外は戸建住宅に住むことは難しく、中位の武士はこのアパート的長屋に住んだ。部屋数も少なく厳しい生活を強いられた。このような長屋建築は次々に建て変えられて現存数が少なく貴重な遺構である。この長屋は西側から間口8間、6間、6間、6間=桁行26間、奥行き3間の4軒長屋で、安中藩の小野直が残した図面を元に復元。 |
かぎや | 八本木立場茶屋 | 不動寺仁王門 | 甘楽町小幡の町並み |
安中市坂本 | 安中市原市 | 安中市松井田町松井田甲987 | 甘楽町小幡 |
? | ? | 竣工/元禄9年(1969) | 竣工/江戸後期 |
★ | ★ | ★県指定文化財 | ★市指定文化財 |
中山道坂本宿の旧旅籠、創業は江戸前期。高崎藩納戸役鍵番していた武井家の先祖が坂本にきて始めたので「かぎや」。総二階建、部屋は8間。建物の竣工年は不明だが格子や軒飾りから判断すると江戸末期~明治初期?。目につくの「かぎや」と記した屋根看板である。旅人に判り易く工夫されている。屋根の破風には社寺風の懸魚があり出梁の下には透かし彫り施されている。貴重な旅籠建築遺産である。 |
中山道の安中宿と松井田宿の間にある。立場は江戸時代に宿場間が遠い場合や峠に設けられた休憩施設で、茶屋や売店が併設される所も多かった。藩が設置したもの民間が設置したものがる。八本木はどちらか判らない。ここは代々、山田卯兵衛家が茶屋本陣を勤めており、現在も山田家が有する。白壁、出桁造の建物が往時を語っている。竣工は不明だが貴重な遺構。 |
鎌倉時代の高僧・慈猛上人によって開かれたという真言宗豊山派の寺院。仁王門は三間一戸、八脚の単層門切妻造、こけら葺。全体に朱色で彫刻部は極彩色である。 |
甘楽町の小幡地区は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、豪族・小幡氏の根拠地として栄えた場所。1615(元和2年)に織田信長の次男、織田信雄が上州小幡2万石及び大和国宇陀郡3万石が与えられ、8代152年にわたり織田家が支配した後、松平氏が入封し明治維新を迎えました。それほど古い建物が数多く残っていないが、織田信雄らの墓が残されているなど、織田家を語る上では、欠かせない場所です。 |
南牧村の集落 | 日向見薬師堂 | 富澤家住宅 | 白井屋 |
南牧村砥沢 | 吾妻郡中之条町四万4371 | 吾妻郡中之条町大道1274 | 吾妻郡中之条町中之条1798 |
? | 竣工:安土桃山時代 | 竣工/18世紀末 | 竣工/明治後期 |
★ | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国登録文化財 |
出桁造りの町並が続く南牧村砥沢、江戸時代には砥石の採掘で栄えた所だ。南牧村砥沢は中山道脇往還が下仁田で分岐し、砥沢を経て信州・甲州に通じている。国境に通じるため、文禄2年(1593)砥沢村に南牧関所が設けられた。 |
四万温泉地の奥にある。慶長3年(1598)に伊勢の鹿目喜左衛門藤原家定が、真田信之の武運を祈願して建立した。大工は地元出身と思われる横尾縫殿助。堂内の厨子の竣工は天文6年(1537)である。薬師堂は方三間堂、寄棟造茅葺屋根。建築様式は和様と禅宗様の折衷様式である。薬師堂の手前のお籠り堂(町指定)は慶長19年(1614/江戸前期)の竣工。 |
江戸初期以来大道集落の名主を勤めた旧家。家は東西約24m、東北13m、入母屋造の養蚕農家建築。二階が一階より張り出し、その部分に手すりをつけて養蚕作業時の通路や桑を運び上げる際に使われた。二階の採光のために屋根を切りあげている。それが変化のあるデザインとなって一味異なる雰囲気を作っている。 |
三国街道脇往還に通じる新道にたつ旧旅籠。桁行7間、梁間4間。木造二階建、切妻造。平入とし二階を「せがい造」にし、6畳の客室を5室持つ。明治25年頃開業したという。三国街道脇往還に通じる新道に東面して建つ。間口桁行7間,梁行4間規模,切妻造の木造2階建で,平入とし,2階を「せがい造」に造り,6畳の客室を5室配する。周辺に官公庁舎がたちはじめた明治25年頃から宿屋を開業と伝える。明治期旅籠遺構のひとつ。 |
大岩学校(牧水会館) | 六合(くに)村赤岩 | 六合(くに)村赤岩 | 山本館 |
吾妻郡中之条町上沢渡3404 | 吾妻郡中之条町六合赤岩 | 吾妻郡中之条町六合赤岩 | 吾妻郡草津町草津404 |
竣工/明治12年(1879) | 大正〜昭和初期 | ||
★町指定文化財 | ★伝統的建造物群保存地区 | ★伝統的建造物群保存地区 | ★国登録文化財 |
明治の学校建築。若山牧水ゆかりの学校。旧大岩学校は、明治はじめの学制発布におり、地元の子弟教育の重要性を思い、住民が協力して建てた校舎で、明治初期に建てられた当時の姿が現存するのは県内でもめずらしく、中之条町の重要文化財に指定されている。明治13年から新校舎が完成する昭和29年まで使われた。 |
赤岩は、その中心部である山村・養蚕集落は重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)として選定されている。赤岩は養蚕を主業としてきた、旧六合村にある農山村集落である。集落内には江戸後期~明治時代に建てられた母屋、蔵などが残る屋敷が多く残されており、往時の日本の山村風景が良く保たれている。何もない伸びやかな景観こそが赤岩の良さかもしれない。 | 歴史的には、木曽義仲の家臣を祖に持つ湯本家に、幕府を非難し捕らわれて脱獄した高野長英が隠れ住んでいたことが目立つ事件である。湯本家は木造三階建で一、二階は文化3年(1806)三階は蚕室として明治30年(1897)に竣工した。江戸時代から医師である。二階に「長英の間」が残されている。観音堂、毘沙門堂、神社などの宗教施設も残っている。 | 大正時代に作られ、昭和3年、10年に増築されている。草津温泉の湯畑の西隣にあり、木造3階地下1階建、入母屋造鉄板葺、塔屋付で、東面に千鳥破風を飾る。正面入口に構える唐破風造の玄関や、各階に廻らした軒庇が外観を特徴付けており、草津の名物旅館として知られている。 |
2020-12-20修正