旧岩田家住宅 | 梅田家住宅 | 旧弘前諸藩士住宅 | 旧弘前諸藩士住宅 |
弘前市大字若党町 | 弘前市大字若党町 | 弘前市大字若党町72 | 弘前市大字若党町72 |
竣工/寛政〜文化年間(1800頃) | 竣工/嘉永年間 | 竣工/宝暦6年(1756)以前 | 竣工/宝暦6年(1756)以前 |
★青森県重宝 | ★青森県重宝 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
中町重伝建地区の東端にある。数度の改造は受けてはいるが、主要構造部材や屋根などはほぼ当時のままである。弘前城下の下級武士の住まいとして敷地利用も旧態を良く保つ貴重な遺構である |
市内在府町からの移築。茅葺。当初の居住者は森新次郎という森家十代目で知行百石の武士と判明している。 |
(旧笹森家住宅)藩政時代の武家住宅台帳「御家中屋舗建家図(宝暦6)」に記載がある伝建内最古の建物である。 |
小規模だが接客を重んじる武士の住宅様式が取られている。全体に品が良く、過剰さがなく好感が持てる上質な住宅建築である。切妻造、柾葺。移築。 |
旧伊東家住宅 | 弘前仲町保存地区 | 弘前城・天主 | 弘前城・丑寅櫓 |
弘前市大字若党町 | 弘前市若党町一帯 | 弘前市大字下白銀町1 | 弘前市大字下白銀町1 |
竣工/江戸後期(19世紀初期) | 竣工/ | 竣工/文化8年(1811) | 竣工/慶長15年(16110桃山) |
★青森県重宝 | ★国指定伝統的建造物群保存地区 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
元藩医の住宅。市内長町からの移築。中級武家屋敷。木造一部二階建。トタン葺屋根。 |
弘前の城下町は弘前城を四方から囲むように配置された。北門(亀甲門)が当時の大手門で、その北側に亀甲町と呼ばれる職人町を挟んで侍町が数カ所置かれた。この侍町を仲町と呼ぶ。岩木山を望むサワラの生垣の綺麗な通りで、当時の武家屋敷町の雰囲気を良く伝える。多くの重伝建地区のような家並みの連続はなく、観光客も疎らで清々しい | 初代天守が寛永4年(1627)の落雷出火で焼失。文化8年(1811)に三重天守として竣工したのが辰巳櫓(御三階櫓)で、江戸幕府への遠慮から天守とは呼ばなかったが、これが現在の天守で、現存12天守で最北限である。 |
敵の攻撃や物見のために造られたもの。竣工などは未寅櫓と同じ。丑寅は北東。この他に辰巳櫓(国指定重要文化財)があり、三層目が小さくなっているため他の櫓と異なって見える。竣工など同じ。歴代藩主はこの櫓から弘前八幡宮の山車行列などを観たという。 |
弘前城・未申櫓 | 弘前城・与力番所 | 弘前城・二の丸南門 | 弘前城・追手門 |
弘前市大字下白銀町1 | 弘前市大字下白銀町1 | 弘前市大字下白銀町1 | 弘前市大字下白銀町1 |
竣工/慶長15年(16110桃山) | 江戸中期 | 竣工/慶長16年(1611/桃山) | 竣工/慶長16年(1611/桃山) |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
敵の攻撃や物見のために造られたもの。櫓名は天守から見た方角を十二支でしめしたもので、未申は南西にあたる。防弾、防火のため土蔵造担っている。入母屋造、三層。
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上級武士に仕えていた人を与力と呼び、与力が見張り役として警備をした詰所を与力番屋という交番のような役の建物。藩政時代には12カ所あったという。竣工は不明だが江戸中期と考えられている。妻側や裏側のデザインなど見所のある建物である。 |
弘前公園の正面玄関ともいえる門。藩政時代も正門とされていた。創建当初は裏門だったが碇ヶ関街道の整備により人馬の動きが変わったため正門化したという。簡素な素木造りで、戦国時代の古いケ形式を残すものとして全国の城郭建築の中でも珍しいものといわれる。 |
弘前城・二の丸東門 | 弘前城・北門(亀甲門) | 石場家住宅 | 石場旅館 |
弘前市大字下白銀町1 | 弘前市大字下白銀町1 | 弘前市亀甲町88 | 弘前市大字元寺町55 |
竣工/慶長16年(1611/桃山) | 江戸初期 | 竣工/江戸中期 | 竣工/明治12年(1879) |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国登録文化財 |
弘前城には、現在五棟の城門が残されているが、この北門は、これらの中でも特に規模が大きく、また形状も異なり最古の形式を呈する城門である。旧大光寺城(現・南津軽郡平賀町)の城門の移築。弘前城は実戦経験がないので城中唯一の実戦体験を持つ建物。 |
現役の酒屋だが、かつては藩内のワラ工品と荒物を扱っていた商家。主屋は他所からの移築といわれる。雪国特有の「こみせ」がある。町名通り亀甲門を出た所の通りにある。石場家の裏手が伝建通りである。入母屋と切妻の混合。現役商舗のため一部のみ見学可。 |
石場旅館の創業者は下級武士で明治維新後に廃刀して小間物商を始めたという。やがて小間物屋と旅館を兼ねた舗を始めた。シンプルな美しいモノトーンのファサードを持つモダン和風とも言えそうな佳作である。内部も良く残っている。 |
革秀寺本堂 | 革秀寺・津軽為信御霊屋 | 長勝寺三門 | 誓願寺山門 |
弘前市藤代1-4-1 | 弘前市藤代1-4-1 | 弘前市西茂森1-23-9-8 | 弘前市大字新町 |
慶長15〜17年(1610〜1612) | 江戸初期(文化年間の修理) | 竣工/寛永6年(1629) | 竣工/江戸中期 |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
慶長3年(1598)に津軽家の菩提寺・長勝寺の格翁和尚の隠居所として開かれたのが始まりと伝えられる古刹。桁行9間、梁間8間、入母屋造、茅葺屋根。 山門前の蓮池の花咲くの時は素晴らしい。 |
為信霊屋は慶長13年(1608)の記録があるが、現在の霊屋はその後の再建と思われる。江戸初期の建立時は質素だったが、文化年間の修理で現在の華やかな姿になった。
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当寺は津軽家の菩提寺。三門は三間一戸、入母屋造、とち葺の八脚楼門形式。構造的には岩木山神社楼門に似ている。門の前に立つとその大きさに圧倒される。本堂、庫裏は慶長年間の竣工で共に国重文。その他にも御影堂や津軽家霊屋(共に国重文)などの建築群を持つ津軽を代表する大寺院である。 |
門は全体に彩色が施されている。上層の板壁には十二支の動物が描かれている。正面中央に高く切妻造の破風を表し、下部は左右に片流れの招破風(まねきはふ)を持つ。懸魚は鶴と亀の形の極めて珍しい表現の門である。俗に鶴亀門と呼ばれ、全的にも稀有な存在である。 |
最勝院五重塔 | 岩木山神社・楼門 | 岩木山神社・拝殿 | 岩木山神社・本殿 |
弘前市大字銅屋町 | 弘前市大字百沢寺寺沢27 | 弘前市大字百沢寺寺沢27 | 弘前市大字百沢寺寺沢27 |
竣工/寛文7年(1667) | 竣工/寛永5年(1628/江戸前期) | 竣工/寛永17年(1640) | 竣工/元禄7年(1694/江戸中期) |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
慶長3年(1598)に津軽家の菩提寺・長勝寺の格翁和尚の隠居所として開かれたのが始まりと伝えられる古刹。桁行9間、梁間8間、入母屋造、茅葺屋根。 |
棟高17・85m、丹塗り二層の壮大な楼門である。組物は三手先詰物、上層階は高欄を廻す。拝殿の前の中門は竣工/元禄7年(1694/江戸中期) 拝殿前にたつ四脚門。岩木山神社を構成する上で中枢的な役割を担う門である。 |
この拝殿は元来、神仏習合の時代に百沢寺(神仏分離により廃寺)の大堂として建てられたものである。慶長8年(1603年)に起工し、三代藩主信義の寛永17年(1640年)に至って完成した。壮大な五間堂で、密教寺院本堂としての雰囲気を今に伝えている。 | 社殿は神仏習合次代の名残りが見られる。参道は岩木山登山道の入口で神社の奥宮は岩木山の山頂付近にある。華やかな社殿は日光東照宮を思わせるとして「奥日光」とも呼ばれる。 |
岩木山神社・社務所 | 弘前八幡宮 | 熊野奥照神社本殿 | 高照神社本殿 |
弘前市大字百沢寺寺沢27 | 弘前市八幡町1丁目 | 弘前市大字田町4丁目 | 弘前市高岡 |
江戸時代末期 | 竣工/慶長17年(1612/江戸初期) | 竣工/慶長18年(1613/江戸初期) | 正徳2年(1712) |
★青森県重宝 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★青森県重宝 |
座敷廻りに土縁を巡らし、「御座の間」と呼ぶ上段を中心にとり、「御次」、「御膳立」などを並べているところは、藩主の参詣を想定したものとなっている。社務所として若干の改造を受けているが、大きな入母屋造茅葺屋根の景観は圧巻である。 |
本殿は三間社流れ造、細部は極彩色で彩られ蟇股や扉の彫刻には桃山時代の工法が用いられている。唐門(中門)は入母屋造、こけら葺の四脚門でここも桃山文化が色濃い建築である。 |
二代藩主・津軽信枚が再建した。桁行三間、梁間二間に三間の向拝がついている。弘前の建造物では棟札で確認できる最古の建築である。 |
高照神社は吉川神道に基づく独特の構成で全国的にも類例がない。吉川神道は江戸初期、吉川惟足によって唱えられた神道の説。吉川惟足は将軍・綱吉などの信任を集めた宗教家。歴代津軽藩主の廟所がある岩木山麓にある神社。方三間で一段低く唐破風造りの向拝を持つ。屋根はこけら葺 |
栄螺(さざえ)堂 | |||
弘前市西茂森2丁目 | |||
竣工/天保10年(1839/江戸後期) | |||
★弘前市指定文化財 | |||
蘭庭院栄螺堂は津軽の豪商・中田嘉兵衛が商船の航行中に出た遭難死亡者や八万人余りの餓死者を出した天明、天保の大飢饉などの供養のために建立した。六角堂とも呼ばれるが八角形二重堂。宝形造、こけら葺だった屋根は現在は鉄板葺。 |
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