こちらから 中通り(東北本線沿い)・浜通り(常磐線沿い) へ
喜多方市と会津北部
熊野神社長床 | 熊野神社長床 | 勝福寺観音堂 | 笹屋旅館 |
喜多方市慶徳町新宮熊野2258 | 喜多方市慶徳町新宮熊野2258 | 喜多方市関柴町三津井堂ノ下 | 喜多方市字3丁目4844 |
竣工/鎌倉前期 | 竣工/鎌倉前期 | 竣工/永禄元年(1558/安土桃山) | 竣工/明治12年(1889) |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | |
当神社は天喜3年(1055)に源頼朝が陸奥征討に赴いた際、武運を祈って紀州熊野から熊野堂村(現・河東町)に勧請し、後にこの地を訪れた息子・源義家が新宮に移して寛治3年(1089)に完成したとされる古社である。古建築には素晴らしいものが多いが中でもこの長床は屈指である。 |
その拝殿「長床」は平安時代の貴族の住宅の主殿の様式である寝殿造りを踏襲した建築で、直径1尺5寸(約束45cm)の円柱44本が等間隔の五列並んでおり、正面9間、側面4間吹放ちの大空間である。寄棟造、茅葺屋根。かつては修験者の道場として使われた。 列島古建築紀行に掲載 |
会津には禅宗様の手法を持つ堂宇が多いが、この堂は和様の要素が多く、内陣を縦長の二間とするなど独特の平面を持つ。茅葺の奥行四間梁間三間の堂は、やや茫漠とした境内に、ポツンとたつ風情である。はるか遠く会津の山並みが輝やく。 |
創業明治十二年の老舗旅館で典型的な商人宿だった。大正から昭和にかけての一時期、喜多方地方には文化人たちが訪れ、制作活動を行った。来遊する芸術家をもてなし、作家たちの活動を支援する拠点一つとして利用された。 |
甲斐本家 | 新金忠―食堂&バル | 杉山集落の蔵並み | 杉山集落の蔵並み |
喜多方市字1丁目4611 | 喜多方市字南町2854 | 喜多方市岩月町入田付杉山 | 喜多方市岩月町入田付杉山 |
竣工/大正13年(1924) | 江戸末期/ 平成期改修 | ||
★国登録文化財 | ★国登録文化財 | ||
「旧甲斐本家」の内部は銘木をふんだんに用いて建てられた重厚な建物である。贅を尽くして建造され、蔵は外壁を黒漆喰で塗りこめ、大正6年から大正12年までの足かけ7年の月日を費やして完成された。座敷蔵、住宅店蔵、醤油蔵が登録文化財になっている。 |
蔵は国の登録有形文化財に指定され、地元では「金忠」の名で親しまれていたが、昨年1月に廃業した。地元の会津北方小田付郷町衆会が地元有志らに呼び掛け、有志が出資する会社を設立、井上合名会社の土地や蔵の一部を購入した。 |
三津谷から、更に北へ旧米沢街道を約3km進んだ所にある集落。漆喰や粗壁の蔵が並ぶ。窓扉は霧よけという窓の上の屋根に各戸の趣向が凝らされている。「二重屋根」や削り屋根の変形ともいえる「腰折れ切妻」「かぶと」などと呼ばれる特色ある屋根が多く見られる。 | 殆どの土蔵が妻側を道路向けて建っている。その妻壁には豪快な観音扉の防火壁があり、意匠をこらした土蔵の競演である。多くは明治以後に建てられたものだろう。個人宅のため蔵内は見学不可。 |
円満寺観音堂 | 恵隆寺観音堂 | 旧五十嵐家住宅 | 奥之院弁天堂 |
耶麻郡西会津町下谷字出ケ原 | 河沼郡会津坂下町大字大塔寺松原2944 | 河沼郡会津坂下町大字塔寺字大門466 | 河沼郡柳井津町門前甲898 |
竣工/慶長17年(1618) | 竣工/鎌倉時代 | 竣工/享保14年(1729) | 竣工/応永年間(1394~1428) |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
会津盆地の西端、小集落の小高い境内とも呼べないような山裾に、人々の安全を見守るようにポツンと立つ端正な御堂である。円満寺の創建は南北朝時代といわれ、堂は方三間、入母屋造茅葺屋根、外壁は真壁造檜素地。慶長16年(1611)に地震で倒壊したが翌年再建された。ひっそりとたつ村の堂といった風情が好ましい。 |
通称・立木観音。寄棟造、茅葺で棟に会津特有の棟飾り(ぐし)を供えている。全て和様の架構手法と細部形式を型通りに踏んで建立されている稀に見る純和様建築である。平安初期に弘法大師作といわれる本尊の千手観音は総高2丈8尺(8.5m)の立像で、立木仏としては日本最大級である。その周囲に彩色豊かな眷属の二十八部衆と風神、雷神がおり、全てが完全な姿で残っているのは全国でも稀有な例で、見応え十分な彫像群である。 |
会津地方の本百姓(中級農家)の農家。桁行8間、梁間3間半、床面積117.19㎡、直屋。土台が無く丸石の上に直接柱をたてている。「おめぇと呼ばれる「なかの間」は土間に直接わらやむしろを敷いた土座である。どの部屋も天井は貼っていない。敷地内には茅葺の厠や旧古川家籾倉も移築されている。立木観音に隣接。 |
方三間、寄棟造、茅葺の単層堂。当地は只見川と銀山川の合流地点で会ったため水難が多く、そのため福智、除災をつかさどる弁財天を祀ったと考えられる。圓蔵寺は「柳津虚空菩薩」として知られ、村松山虚空蔵堂(茨城県)、金剛證寺(三重県)と共に日本三虚空蔵に数えられているが、奥之院は円蔵寺とは別の宗教法人となっている。 |
勝常寺薬師堂 | 法用寺三重塔 | 常福院薬師堂 | 常福院薬師堂 |
河沼郡湯川村克常代舞1764 | 大沼郡会津美里町雀林三番山下3554 | 大沼郡会津美里町新屋敷寺山王塚甲99 | 大沼郡会津美里町新屋敷寺山王塚甲99 |
竣工/室町初期 | 竣工/安永9年(1780/江戸中期) | 竣工/室町中期/1393-1466 | 竣工/室町中期/1393-1466 |
★国指定重要文化財 | ★県指定文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
平安初期に徳一によって開かれたといわれる真言宗豊山派の寺院で会津中央薬師堂とも呼ばれる。堂は方五間、寄棟造。元茅葺屋根は銅板葺きに変わっている。内部に安置される木造薬師如来坐像(国宝)、両脇侍像を始めとする12体は平安初期の優れた彫像群である。 |
会津には他に五重塔、三重塔などの高塔はなく、会津盆地唯一の塔である。高さ19m、禅宗様で初重から三重までの屋根の大きさに差がない。初層先にある丸彫の龍頭が良い。通常、塔(塔婆)は人が登るものではないが、この塔には階段がありかつては人を登らせ物見の役も果たしたのかも知れない。本堂には平安後期作といわれる一木彫の金剛力士像(国重文)や会津最古の厨子(国重文)もある会津最古の寺院である。 | 通称・田子薬師と呼ばれる真言宗豊山派の寺院。かつてこの地で勢力を誇っていた田子十兵衛道宥法印が飛騨の匠を使って建立したといわれる。入母屋造、唐様の御堂。本尊の薬師如来坐像は像高174㎝で日光、月光菩薩、四天王、十二神将を従える。元こけら葺の屋根は残念ながら銅板葺きに変わっている。国重文建造物は原形、原材料を固持することを原則とすべきと考える。 |
|
会津若松市と会津南部
左下(さくだり)観音堂 | 延命寺地蔵堂 | 八葉寺阿弥陀堂 | さざえ堂 |
河沼郡湯川村克常代舞1764 | 会津若松市河東町倉橋字藤倉160-2 | 会津若松市河東町大字広野字権現塚4 | 会津若松市一箕町八幡滝沢155 |
竣工/室町初期 | 竣工/室町中期 | 竣工/文禄年間(1592~96/安土桃山) | 竣工/寛政8年(1796・江戸後期) |
★県指定文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
創建千年に及ぶともいわれる左下観音は、別面首なし観音ともいわれる観音堂である。堂は山の中腹の岩を切り崩して建てた層の五間、高さ四丈八尺(14.5m)の見事な懸造りである。徳一大師が建立したといわれる。懸造りは京都の清水寺などで知られる崖上に造る建築様式だが、会津の里山で見るそれは清水寺のそれに優る魅力である。最近は知名度が高くなって訪れる人が多い。 列島古建築紀行に掲載 | 別名・藤倉二階堂。創建は大同2年(807)に徳一和尚が開山したと伝えられる。主屋根の下に裳階があることから藤倉二階堂と呼ばれるが単層の御堂である。方三間、寄棟造、茅葺で柱は方5間で外部開放。
|
空也上人により建立されたと伝わる会津の高野山といわれる寺院。堂は方三間、入母屋造、茅葺屋根。軒下の土止め礎石には野面石を用いている。内部床は総拭板敷、天井は鏡天井化粧屋根裏で唐様。正面に須弥壇、左右に来迎柱、その中央に阿弥陀如来像を安置する。 |
正式名は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」。かつて飯盛山に正宗寺という寺院があり、そこの住職・郁堂が考案した建物。二重螺旋構造で上りと下りがすれ違わない方式で会津の観光名所の一つ。 |
茶室隣閣 | 向瀧 | 向瀧 | 渋川問屋 |
会津若松市追手町・鶴ヶ城 | 会津若松市東山町大字湯本字川向200 | 会津若松市東山町大字湯本字川向200 | 会津若松市七日町3-28 |
竣工/明治後期 | 竣工/明治後期 | 竣工/明治初期 | |
★県指定文化財 | ★国登録文化財 | ★国登録文化財 | ★市歴史的景観建造物 |
会津藩主・蒲生氏郷が、秀吉の怒りが千家に及ぶことを恐れ、茶堂の師である千利休の子・千少庵を会津に匿った。蒲生氏の恩義の報いるため少庵が滞在中に建てた茶室。明治7年(1874)若松城解体の際に森川善兵衛が政府に願い出て自宅に移築、保存。平成2年に元の場所に移築、復元された。 |
江戸時代には「天寧の湯」と呼ばれた東山温泉は、会津藩士が湯治に訪れる保養地だった。旅館「向瀧」はかつて上級武士の保養所として官選の指定を受けていた格式ある温泉宿であった。維新以後、廃藩置県により藩から平田家が譲り受けて現在に至っている。 |
建築は数奇屋造りに書院造りを加味したもの。東側から玄関、本館、客室棟、新館が川沿いに配置されてる。山の斜面にも離れなどがある。玄関の入母屋の破風と本館の大型千鳥破風が重なり重厚感がある。優れた近代旅館建築の一つ。 |
会津随一の豪商・渋川問屋は城下の日本海側の玄関口に位置しており、そのため渋川問屋には日本海側で獲れた海産物がここに集積されてから藩内に運び込まれた。主屋は木造二階建、切妻、袖蔵は木造二階建、塗込造である。一階開国部にはファンライト(半円形欄間)など洋風要素も加味されている。 |
滝沢本陣(旧横山家住宅) | 大内宿 | 中の沢観音堂 | 南泉寺楼門 |
会津若松市一箕町八幡滝沢122 | 南会津郡下郷町 | 南会津郡下郷町大字中妻寺観音前228 | 南会津郡南会津町静川字西の沢口乙 |
竣工/延宝6年(1678/江戸前期) | 竣工/明治後期 | 竣工/明治後期 | 寛政6(1794/江戸後期) |
★国指定重要文化財 | 重要伝統的建造物群保存地区 | ★国指定重要文化財 | ★県指定文化財 |
藩主などの参勤交代や領内巡視時の休憩所。戊辰戦争の際に本営となり白虎隊もっこから出陣した。書院造、茅葺。滝沢組郷頭を勤めた横山家の住居。近世の農家建築としては福島県では極めて古い遺構である。座敷部は19世紀初頭に建て変えられたものだが類例が少ないことから国重文に指定されている。 |
大内宿は、江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ重要な会津西街道の宿場町として栄えた。明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位を失ったが、そのため江戸時代の面影そのまま残った。茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち、昭和56年には国選定重要伝統的建造物郡保存地区に指定された。 |
現在は旭田寺の眷族仏堂。南北朝様式を残す無釘の純和様仏堂建築。方三間、廻廊付。寄棟造。ここも元は茅葺と思われるが銅板葺に変わっていて惜しまれる。本尊は聖観音立像(平安時代/市指定) |
松見山南泉寺は浄土真宗高田派の寺院である。楼門は御蔵入領の農民たちが寄付金を出し合って建てた茅葺の一戸楼門である。境内にあるしだれ桜「平七桜」も県指定である。緑豊かな伸びやかな野にたつ楼門は美しい。 |
成法寺観音堂 | 旧五十嵐家住宅 | 大桃の舞台・駒嶽神社 | 板倉 |
南会津郡只見町大字梁取字御東1747 | 南会津郡只見町大字叶津字居平437 | 南会津郡只見町大字叶津字居平164 | 南会津郡桧枝岐村 |
竣工/16世紀 | 竣工/寛保3年(1743/江戸中期) | 竣工/明治後期 | |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要有形民俗文化財 | ★村指定文化財 |
和唐折衷様式、方三間、寄棟造、茅葺屋根。本尊は聖観音坐像で応長元年(1311/鎌倉後期)の作といわれこちらも国重文である。後方に岩山を見る豊かな自然の地にたっつ観音堂である。 |
江戸中期の中型農家建築。元は直屋だったが後に中門造りとなる。裏日本に多い太い木割の農家である。当時の施主は瀧口大作、棟梁は酒井孝左衛門。桁行7間、梁間4間。中門造りになったのは大正時代。只見町字上町から移築、復元。 |
入母屋造に見えるが正面に小庇がついた切妻造。軒端の形がこの地方独特の造りで「兜造」と呼ばれる。舞台中央は二重、二層機構で上段の二重には唐紙を入れられ、その奥は一段低く、下段の二重と同じ高さの床が張られており楽屋となっている。花道は上演時に架設される。 |
木造のため火災に弱いため、家から離れた畑や山麓に集めて建てられた群倉形式である。倉は通常は「クラヤ」と呼ばれる。文化7年(1810)の桧枝岐図では現在とほぼ同じ群倉が確認できる。板倉の標準的な規模は梁間2間、桁行3間で軒高は3~4m。全行的にも非常に貴重な遺構といえる。 |
前沢曲家集落 | |||
南会津郡南会津町前沢 | |||
竣工/明治40年(1907) | |||
重要伝統的建造物群保存地区 | |||
前沢曲家集落は、文禄年間(1592~1595)に横田城主・山内氏勝の家臣である小勝入道沢西という人が当地に移り住んだとされ、「中世に会津武士が拓いた集落」と伝えられる。明治40年(1907)に集落が全戸消失するという大火に遭い、その後、同一の大工集団によって一時期に各戸を建築されたことによって、統一的な景観が生まれた。 | |
|