森家住宅 | 森家住宅 | 浮田家住宅表門 | 浮田家住宅主屋 |
富山市東岩瀬108 | 富山市東岩瀬108 | 富山市太田南 | 富山市太田南 |
竣工/明治11年(1878) | 竣工/明治11年(1878) | 竣工/天保年間(江戸後期) | 竣工/文政11年(1828/江戸後期) |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
代々四十物屋仙右衛門を世襲してきた肥料問屋を営んだ家柄で、江戸後期からは北前船の廻船問屋として財を成した。 |
木造二階建、切妻造。建物の間口が広く平面は三列四段型で前面と蔵前に中庭があり、通気や採光が考慮されている。 |
古くから当地に土着した豪農で、江戸時代には藩境の警備や山林保護を行う奥山廻役を歴任した。農民でありながら代官職を兼ねるようになると3000石の格式となった。表門は天保年間の竣工、茅葺。 | 主屋は木造平屋(一部二階)、桁行21.2m、梁間20.6m、寄棟造、茅葺。内部は向かって右側がだけ土間で、残りは部屋が配されている。 |
富山陶芸館 | 城戸家住宅 | 道神社拝殿 | 道神社拝殿 |
富山市安養坊50 | 滑川市瀬羽町1862 | 氷見市中田1499 | 氷見市中田1499 |
竣工/明治27(1894) | 竣工/明治8年(1875) | 竣工/享和元年(1801/江戸後期) | 竣工/享和元年(1801/江戸後期) |
★国登録文化財 | ★国登録文化財 | ★県指定文化財 | ★県指定文化財 |
市内大塚に建てられた豪農の住宅を移築、転用。建物は良質な材料と高度な技術で建てられており、富山県の平野部に建てられた切妻造民家「アズマダチ」の典型である。
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江戸後期に当地に土着した商人で醸造業や金物類の小売り、貸鍋業などを生業として「神田屋」の屋号世襲していた。家は木造二階建。大屋根の庇は大きく前面に張り出し、外壁から腕木によって支えられている。明治初期の町屋建築として貴重な遺構である。 | 旧天平寺開山堂。元は石動山天平寺の開山堂として建立され、明治維新に石動山の寺領没収や七ケ国知識米勧請停止など、一山の経営が成り立たなくなった。この時、諸堂を売却した際に中田村が道神社の拝殿として買い受けた。 |
2002年に瓦葺を元のこけら葺に戻すなどして美しい堂が蘇った。大工棟梁は、建仁寺流の藤原庄左衛門恭富の門人、射水郡大窪村の藤岡弥右衛門富綱。 |
雄山神社前立社壇本殿 | 瑞龍寺山門 | 瑞龍寺仏殿 | 瑞龍寺仏殿 |
中新川郡立山町岩峅寺 | 高岡市関本町35 | 高岡市関本町35 | 高岡市関本町35 |
竣工/室町中期 | 竣工/文政3年(1820) | 竣工/万治2(1659/江戸前期) | 竣工/万治2(1659/江戸前期) |
★国指定重要文化財 | ★国宝 | ★国宝 | ★国宝 |
立山の冬は厳しく雄山神社は山頂付近の峰本社と中腹の中宮祈願所、里にある前立社壇の三社で構成される。前立社壇は平安初期に開かれたもので、神仏混合の時期もあり寺院色が濃く、大講堂始め多くが軒を連ねていた。現在の本殿は五間社一間向拝付流造、檜皮葺。神社本殿建築としては北陸最大である。 | 山門はもともと、正保2年(1645)に建立され、万治年間に場所を変えて建てかえられた。ところが延享3年(1746)に火災で焼失し、長らく仮の門が建てられていた。現存する山門は、文政3年に竣工したものである。 |
加賀二代藩主・前田利長の菩提寺として三代・前田利常が建立した曹洞宗の寺院。国宝の山門、仏殿、法堂の三棟が一直線に並び、山門と法堂を回廊で繋いで諸堂を配すという禅宗寺院の伽藍配置である。総門、禅堂、大茶堂、高廊下、回廊は国重文。 |
瑞龍寺の大工棟梁・山上善右衛門嘉広は建仁寺流を受け継ぐ加賀藩の御大工で、寛永5年から利常公に仕え、藩内の有名な社寺を数多く建立、それらの多くが現存している。寛永5年頃から寛文9年まで活動し、那谷寺、妙成寺、気多神社、加賀小松天満宮等がある。 |
勝興寺本堂 | 気多(けた)神社拝殿 | 気多(けた)神社本殿 | 武田家住宅 |
高岡市古国府1-17 | 高岡市伏木一の宮1-10-1 | 高岡市伏木一の宮1-10-1 | 高岡市太田4258 |
竣工/江戸時代 | 竣工/ | 竣工/室町後期 | 竣工/江戸後期 |
★国指定重要文化財 | ★ | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
西本願寺の本堂を模して建てられたもので、約40m四方の巨大な木造建築で地方においては破格の規模である。本坊、諸堂、諸門も全て国重文。 |
能登一の宮気多大社から越中一の宮として、祭神を移し祭ったといわれている。所在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。 |
三間社流造。木割が大きく、虹梁、挙鼻、手狭の手法が室町時代の特徴を残している。天文年間(1532~1555)に上杉謙信の兵火に社殿がことごとく焼失し、永禄年間(1558~1570)のころに再建したのが現在の本殿であるといわれている。 |
代々太田村の肝煎やそれを補佐する組合頭を務め高300石と言われた豪農。家は勝興寺本堂が再建された折の木材で建てられたと伝わり、構造や手法からもその頃のものであることが明らかとされる。山岡鉄舟や横山大観らの作品を所有しており、当主の交流の広さを物語る。 |
筏井家住宅 | 菅野家住宅 | 菅野家住宅 | 谷村家住宅 |
高岡市木舟町17 | 高岡市木舟町36-1 | 高岡市木舟町36-1 | 高岡市伏木中央町1-6 |
竣工/明治36年(1903) | 竣工/明治33年(1900) | 竣工/明治33年(1900) | 竣工/明治初年(1867) |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★県指定文化財 |
代々、糸などの卸商を営み、高岡の中心部の山町筋にある商家。主屋は桁行6間半、梁間7間、切妻造、桟瓦葺。両隣家との境に煉瓦積みの防火壁がたつ。北側の防火壁に沿って主屋と土蔵を結ぶ通り土間が、南側の防火壁に沿って主屋と客用便所を結ぶ土庇がある。 | 高岡の政財界をリードしてきた名家。家は土蔵造、二階建、平入の商家建築。大工棟梁は室田直助。黒漆喰仕上げの重厚な外観に正面庇の天井飾、軒を支える鋳物の柱など細部に装飾を持つ。質の高い高岡の伝統的町屋建築の中でも大規模で格の高さを見せている。 | 代々勝興寺の家老を勤めた家柄で、明治維新後に現在地に移り、地元の棟梁・針山分吉によって建てられた。間口5間、切妻造。内部「キャクシツ=客室」「ツギノマ=次の間」は木材による棹円天井で、赤味の土を塗った数奇屋風空間である。 |
山町筋の町並み | 金屋の町並み | 埴生護国八幡宮本殿 | 村上家住宅 |
高岡市 | 高岡市金屋 | 小矢部市埴生2071 | 南砺市上梨742 |
竣工/鎌倉後期 | 竣工/ | 竣工/慶長5年(1600/安土桃山) | 竣工/江戸中期 |
★伝統的建造物群保存地区 | ★ | ★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 |
伝建に指定されているのは、山町10カ町のうち主に御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町である。この地区には土蔵造の町家、洋風の町屋から煉瓦造りの銀行など明治中期から昭和初期に建てられた貴重な建築がある。しかし、太い車道に面しているため、印象が散漫で、今一つ町並みとしての美しさには欠ける。 | 高岡で最も古い町並みで、慶長14年(1609)に二代加賀藩主・前田利長が高岡の繁栄策として鋳物造りを奨励したことから高岡鋳物の発祥地として栄えた。今も格子造りの家が連なり美しい昔町の表情を見せる。 |
前田利長が再建した社殿。本殿は三間社流造、こけら葺、正面一間向拝付。江戸初期の大型本殿建築の遺構である。拝殿は正保3年(1646)竣工、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付、入母屋造、こけら葺、正面千鳥破風。幣殿も正保3年竣工。社殿全てが国重文である。 |
五箇山地方の民家の内古い形式を改造せずに残している合掌造の中でも最大規模で、一重4階、切妻造、茅葺、戸口は妻入、間口10.7m、奥行20.4m。伝承では天正6年竣工と言われるがその手法などから江戸中期と考えられる。建築金物は一切使用されていず、土壁でなく板壁である。 |
羽馬家住宅 | 岩瀬家住宅 | 相倉合掌集落 | 相倉合掌集落 |
南砺市田向254 | 南砺市西赤尾町857-1 | 南砺市相倉 | 南砺市相倉 |
竣工/江戸中期 | 竣工/江戸後期 | 竣工/ | 竣工/ |
★国指定重要文化財 | ★国指定重要文化財 | ★伝統的建造物群保存地区 | ★伝統的建造物群保存地区 |
最古の合掌造。建立は恐らく江戸時代中期以前と考えられる。小規模な家だが後世の改造も少なく当初の姿を良く残している。 |
合掌造の急勾配の高い屋根は雪を落とす目的と屋内を幾層にも分けて活用するためである。岩瀬家は準5階建で3~5階は養蚕空間であった。下階の炉からの暖気や風通しを考慮し上階の床は透かしの目皿になっている。 | 32戸の住宅のうち20戸が合掌造り家屋である。最も古い家は17世紀に遡る。集落入口上部の高台からの眺めが素晴らしい。 |
岐阜県境の山あいにある五箇山地方の合掌造り集落では古くは山間地のため米作が出来ず、煙硝、養蚕、紙漉きなどが生業であった。合掌造り民家はこれらの業態に合う構造である。 |
相念寺(東方道場) | 西方念仏道場 | 流刑小屋 | 流刑小屋 |
南砺市・相倉集落内 | 南砺市・相倉集落内 | 南砺市上梨 | 南砺市上梨 |
竣工/安政6年(1859/江戸末期) | 竣工/安政6年(1859/江戸末期) | 竣工/明和年間(江戸中期) | 竣工/明和年間(江戸中期) |
★伝統的建造物群保存地区 | ★伝統的建造物群保存地区 | ★県指定民俗文化財 | ★県指定民俗文化財 |
五箇山は浄土真宗を信仰している人が多く室町時代後期より、集落毎に念仏道場が設けられた歴史がある。木造平屋、桁行4間、奥行6間、入母屋造、茅葺、向拝1間付。壁は素木板張り、無装飾で質実な御堂建築である。 |
浄土宗東本願寺派の相念寺(東方道場)に対して西本願寺派の門徒道場として設けられた。 桁行3間、梁間4間半、外壁は素木板張り。 |
江戸時代、五箇山は加賀藩の流刑地であった。寛文7年(1667)に初めて罪人が送り込まれた。流刑地は7集落に限定され明治維新まで150~200人の罪人が刑に服した。ほとんどが政治犯である。 |
7集落は庄川右岸に位置し橋はなかった。現在の龍刑小屋は明和年間のお縮み小屋(小屋外不出)として建てられた間口2.6m、奥行3.6m、高さ3m、切妻造、茅葺。明治以降は物置などに使用されたが豪雪により倒壊したため復元。 |
2020.02.28