岐阜県

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川原町の町並み 川原町の町並み 白山神社拝殿 旧旅籠絹屋(鵠沼宿町屋館)
岐阜市湊町 岐阜市湊町 山県市東深瀬 各務原市鵠沼西町1-116-3
竣工/ 竣工/ 竣工/文亀2年(1502/室町後期) 竣工/元治元年(1864)以前
★伝統的建造物群保存地区 ★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財 ★市指定文化財
長良橋南詰の鵜飼観覧船乗り場から西に続く「湊町、玉井町、元浜町、を通称「川原町」という。この地域は水運を利用した川港として、奥美濃から木材や美濃和紙の陸揚げで栄え、多くの商店もあり賑わった。

今も「岐阜うちわ」や「鮎菓子」の舗がある。町並みは長い方ではないが、連子格子の良質な民家が多い。この地域が当初は無人の河川敷で、現在のように町家が連なるようになったのは江戸中期頃といわれる。

簡素な造りで屋根もなだらかな勾配で、四隅の反った姿が室町時代の特徴を示している。桁行5間、梁間3間、入母屋造、四面吹放し。外回りは要所を残して腰板をはり、床下には連子格子をはめ込む。天井は猿頬面を取った格天井である。 主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟で構成されている。木造二階建、平入、入母屋造、瓦葺。現存建物は明治24年の濃尾地震で倒壊した後の再建である。付属屋は大正~昭和初期竣工の養蚕小屋。離れは太田宿からの移築である。

 

皆楽座・津島神社内 円鏡寺楼門 桑原家住宅表門 南宮神社社殿
各務原市鵠羽場町1-216 本巣郡北方町北方 大垣市上石津町一之瀬365 不破郡垂井町宮代
竣工/明治31年(1888) 竣工/永仁4年(1293/鎌倉後期) 竣工/江戸後期 竣工/寛永19年(1734/江戸初期)
★国登録文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
津島神社の拝殿を兼ねているため本殿に向かって正面にある。切妻造、二階建、白壁仕上げ。小規模な芝居小屋だが回り舞台、囃子座仮、楽屋、奈落を備える。拝殿を兼ねているため桟敷席、客席の設置はない。

三間一戸、入母屋造、檜皮葺、純和様の楼門建築。柱はすべて円柱とし礎石上にたつ。下層の組物は二手先で、虹梁の鯖尻の曲線、板蟇股の肩の繰形の曲線は典型的な鎌倉期の特徴である。左右に鎌倉期の仁王像を安置する。 美濃石津郡の郷士の住宅の屋敷構えがよく残っている。桁行29.1m、梁間13.8m、一部二階建、切妻造段違、四面庇付、桟瓦葺。主屋と北倉(江戸中期)の他に表門と米倉(江戸後期)が国重文である。原則非公開。 南宮山麓に鎮座する。鉱山、金属業の総本山として信仰を集める。社殿は15棟あり、すべてが重要文化財である。建築様式は和様と唐様の折衷様式で、南宮造と呼ばれる。本殿と幣殿だけは素木造でその他は鮮やかな朱塗りである。

 

真禅院三重塔 真禅院本地堂 竹中氏陣屋櫓門 横蔵寺仁王門
不破郡垂井町宮代 不破郡垂井町宮代2 不破郡垂井町岩手629-2 揖斐郡揖斐川町谷汲神原
竣工/寛永19年(1642/江戸前期) 竣工/寛永19年(1642/江戸前期) 竣工/江戸前期 竣工/延宝3年(1675/江戸前期)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★県指定文化財 ★県指定文化財
造営は、幕府大工頭木原杢助が各種殿堂の仕様書・木割帳・絵図面等を作り、商工業者・諸職人を集めて見積・入札を行い、入札を行った。三重塔は南宮神社社殿群と一連の造営によるもので元は神社境内にあった。 本地堂は明治の神仏分離で南宮神社の旧神宮寺の建物を移築したものである。桁行4間、梁間3間、入母屋造、こけら葺。春日局が徳川家光の代参で来ている。元々は木賊葺であったが平成の大修理時に銅板武器に替えた。 竹中半兵衛の嫡男・重門が菩提山城を廃して構えた陣屋(役所・官舎)の正門。門の西側に1636坪にわたる陣屋が形成されていた。重門は関ヶ原の役には徳川家康に味方し、この地で5千石を安堵され旗本となった。 桁行6.34m、梁間3.50m、三間一戸、入母屋造、檜皮葺で上層に鐘を吊る鐘楼門。柱は円柱、通路上部には虹梁が入り、その上に太甁束がたつ。大規模な修理がされており下層の部は取り替えられ、組物の多くも新材になっている。

 

日竜峯寺多宝塔 旧太田脇本陣林家住宅 商家竹屋(現・竹屋資料館) 商家竹屋(現・竹屋資料館)
関市下之保 美濃加茂市太田本町 可児郡御嵩町御岳1406 可児郡御嵩町御岳1406
竣工/鎌倉中期 竣工/江戸後期 竣工/明治10年(1877)頃 竣工/明治10年(1877)頃
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★町指定文化財 ★町指定文化財
方三間、檜皮葺屋根、宝珠までの高さ14.7m、上層は漆喰でかためた円い亀腹(かめばら)である。下層は中央間に散八双(ちりはっそう)を打った板扉をはめ、左右の間は連子窓としている。内部の天井は二重折上げ格天井。 旧中山道の脇本陣である。建物の竣工年は不明だが門は文久元年(1861)で和宮行列通過の年である。主屋は両妻に卯建をあげる。二代・林由秀が分家して脇本陣となった折りに建てたといわれ、宝暦以前の竣工と見られる。
商家だが物販ではなく金融業、貿易業、不動産業などを営んでいた。切妻造、平入、瓦葺。内部は土間を挟む東側に店、中の間、伊アマ、表座敷、奥中の間、奥座敷と整形6間取りし、西側は下店、板の間、台所がある。 北奥には分棟で主屋に接続した炊事場が増設され散る。中庭を挟んで主屋と繋がる茶室もある。茶室は木造平屋茅葺、床面積6.6坪である。土蔵は大正年間の竣工。地方における優秀な商家建築である。中山道の北側にある。

 

明鏡寺観音堂 大湫宿の町並み 大黒屋旅館 大黒屋旅館
賀茂郡八百津町伊伎津志1364-2 瑞浪市 瑞浪市日吉町7905-1 瑞浪市日吉町7905-1
竣工/寛永17年(1640/江戸前期) 竣工/ 竣工/安政5年(1858/江戸後期) 竣工/安政5年(1858/江戸後期)
★国指定重要文化財 ★国登録文化財 ★国登録文化財
寺は八百津町の町外れの小高い位置にある。観音堂は境内の緑を背負った山際に静かにたつ禅宗様の方三間堂、単層、寄棟造茅葺屋根、軒は一軒疎垂木、全体に組物も質実で過美さはなく好ましい。欄間の浪連子(なみれんじ)が壁面に変化を与え美しい。
大湫(おおくて)は読めない地名の一つだが、湫(くて)は湿地帯のことで久手と同義語である。隣町に細久手という宿場がある。かつて大湫は、本陣、脇本陣、問屋、旅籠44軒と大きな規模の中山道47番目、美濃十六宿の一つで皇女和宮も逗留した。
尾州家定本陣で、本卯達、式台玄関、上段の間、箱階段などを残し、中山道細久手宿で今も営業を続ける旅籠。二階建で両端に本卯達をあげる。二階が1階に比べて際立って低いことが、この家の古さを示す。旅籠屋として竣工年が明確な唯一の遺構である。
 

 

美濃の町並み 小坂家住宅(小坂酒造) 旧今井家住宅 旧今井家住宅
美濃市 美濃市相生町2276 美濃市泉町1883 美濃市泉町1883
竣工/ 竣工/安永元年(1772/江戸中期)頃 竣工/江戸中期 竣工/江戸中期
★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財 ★市指定文化財  ★市指定文化財
岐阜県は、北部は飛騨、南部は美濃地方で構成される。金森長近が小倉山城を築城、慶長11年頃に現在の町割りが完成した。その後、船運による和紙を始め物資集散地のとして町は繁栄した。ここで知られるのは「美濃紙」と「卯建=うだつ」である。見事な卯建の家並みは稀有である。 美濃市には江戸時代に建てられた民家が十数軒現存している。その代表的な家が小坂家である。うだつ造りの代表的な民家で、主屋は間口6間、奥行き8間半、うだつは両妻と中央の三本ありむくりを持つ桟瓦葺の屋根である。明治20年頃に二階座敷を設けてほぼ現在の姿となった。 市内最大規模の商家。間口12間、奥行8間、建坪96坪で、中二階の構えである。鬼瓦が小さく、破風瓦の下の懸魚もない簡素な造りは、最も古いうだつ軒飾りの形式である。通常は左右1枚づつの破風飾が2枚で構成されている。中庭には水琴窟がありしっとりとした情感を奏でる。
 

 

大矢田神社本殿 大矢田神社楼門 鹿苑寺地蔵堂 鹿苑寺地蔵堂
美濃市大矢田2596 美濃市大矢田2596 美濃市立花955 美濃市立花955
竣工/寛文12年(1672/江戸前期) 竣工/享保8年(1723/江戸中期) 竣工/応長元年(1311/室町初期) 竣工/応長元年(1311/室町初期)
★国指定重要文化財 ★市指定文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
本殿は三間二間の流造、檜皮葺で向拝付。大工は名古屋の曾根源右衛門。華やかな彫刻と色彩に彩られる。拝殿は三間三面、妻入、切妻造、檜皮葺。妻入り拝殿は市内に類例がない。  明治の廃仏毀釈で観音堂などは壊されたが仁王門は残されたため仏教形式の楼門がある。京都の大工谷口五兵衛と当村大工広田平兵衛によって建立された。唐様を混ぜた和様建築。 「鹿苑寺地蔵堂」と知られ、旧郡上街道の地蔵坂峠にある市内最古の建築。六角形で周囲の縁を巡らせて柱は円柱、斗組は三斗、屋根は檜皮葺である。屋根上の路盤や宝珠は後補である。 堂は左甚五郎作という説もあるが甚五郎が活躍した時代より300年も古い建築なので俗説である。元文3年の板額に記されている文では、応長元年に飛騨の大工匠頭藤原朝臣宗安が再建したとある。

 

郡上八幡の町並み 郡上八幡の町並み 永保寺観音堂 永保寺開山堂
郡上市 郡上市 多治見市虎渓山町1-40 多治見市虎渓山町1-40
竣工/ 竣工/ 竣工/南北朝時代 竣工/南北朝時代
★伝統的建造物群保存地区 ★伝統的建造物群保存地区 ★国宝 ★国宝
奥美濃の小京都といわれる城下町。街中を吉田川が流れ、職人町、鍛冶屋町といった昔ながらの町名の響きが心地よい。職人の町、鍛冶屋町は江戸時代には庶民の町として、間口2間の職人の家から商家の大店までが混ざって軒を連ねていた。 元禄5年には、鍛冶屋町の中に、鍛冶屋8軒、医者5軒、桶屋3軒などの職人や商人が暮らしていたという。家の造方は奥に深い京風で、袖壁を備えた家が多い。町割りに沿って通りの両側を流れる水路は、寛文年間防火の目的で敷かれたものである。 永保寺は濃尾平野の丘陵地にあり、土岐川に面した臨済宗の寺である。観音堂は観音閣もいう仏殿(本堂)。唐様建築に和様建築を加味した折衷様式である。方三間、裳階付、前面一間通りを吹放しちし床は坐式礼拝ができる拭板式である。 開山堂は寺を開いた開祖の像や位牌を祀る御影堂のこと。当寺の開山堂は純唐様の代表例といわれ、現存する開山堂では最古の建築。堂は開山の塔を覆う祠堂と祭享のための昭堂から成る。祠堂は方一間裳階付の小堂。昭堂(外陣)は方三間。

 

中津川の町並み かしも明治座 馬籠の集落 馬籠の集落
中津川市本町界隈 中津川市加子母4793-2 中津川市馬籠 中津川市馬籠
竣工/ 竣工/明治27年(1895) 竣工/ 竣工/
★県指定民俗文化財 ★伝統的建造物群保存地区 ★伝統的建造物群保存地区
中山道45番目の宿場。木曽路と接する美濃東端の中心として古くから蔵元や商家が軒を連ねていた。江戸寄りから、淀川町、新町、本町、横町、下町で、中心は本町で、今も古い町並みが残されている。本町に本陣、脇本陣があり、道の中央を用水が流れている。本町を挟んで京都側に旅籠屋、馬宿、茶屋、商店、職人の家が、江戸側は商家を中心とした町並みがあった。 間口19.6m、奥行7.85m、二階建、切妻造、板葺石置屋根。回り舞台、仮花道、すっぽん、奈落を備える劇場形式の農村舞台。客席は1.2階にあり、二階席は座敷席である。美濃や飛騨では地元の人々による地芝居が盛んで、多くの芝居小屋が建てられ、現存数も多い。ここもその一つである。

馬籠はかつては長野県山口村だったが、平成の統廃合で岐阜県中津川市になったが、昔から馬籠の生活圏は中津川だったと土地の人もいう。贄川に始まった木曽十一宿はここで終わる。陣馬から宿場に入ると急な下り坂が続き、その両側に石垣を築いて平地を造って家を建てている。脇本陣の八幡屋(蜂谷家)は藤村の「夜明け前」には枡田屋の名で登場する。 地元の人に地名を問うと「峠」と答える。ここは、牛方衆という牛で荷物を運んで駄賃を稼ぐ人たちが多く住んだ所である。かつては大名なども通行した峠には「桔梗屋」「大丸」などの旅籠がある間の宿的の役割もあった。低い家並みが続くのは、大名行列などを見下すことのないようにと、二階建が禁じられたからである。

 

 

岩村の集落 勝川家米蔵    
恵那市岩村町本町 恵那市岩村本町    
竣工/ 竣工/江戸末期 竣工/ 竣工/
★伝統的建造物群保存地区 ★市指定文化財
東濃地方の経典として800年の歴史を持つ城下町。関ヶ原の合戦以後は、明治維新まで大給松平家が納めた。現在の町並みはその時代に整備されたもので、およそ120軒の町屋が残されている。中でも木村家や勝川家は素晴らしい。岩村本通りの約1・3kmが重伝建指定地区である。 勝川家は屋号を「松屋」といい、江戸末期から台頭した商家である。母屋も江戸末期のもので一般公開されているが、何といっても三千俵を納めたという米倉が圧巻である。


 

 

 

2020.03.31

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