愛知県

 

興正寺五重塔 龍泉寺仁王門 四間道の町並み 有松の町並み
名古屋市昭和区八事本町78 名古屋市守山区龍泉寺1-902 名古屋市西区那古野 名古屋市緑区有松町
竣工/文化5年(1808/江戸後期) 竣工/慶長12年(1607/江戸初期) 竣工/ 竣工/
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★伝統的建造物群保存地区
上層になるほど屋根が小さくなる逓減率の割合が低く細長い、塔身の長さに対して相輪が短いなどの江戸時代後期の特徴が見られる。全体には装飾を控えた和様で、初層内部や組み上げ構造には古風な手法も見られる。県下雄一の五重塔で、棟梁は森甚六辰清。 龍泉寺は、尾張四観音の一つ。三間一戸、入母屋造、こけら葺の楼門。中央1間を通路とする。両扉脇の後方一間四方に床板を張り、仁王像を安置する。上層は正面中央間のみに板扉を設け、他の柱間は縦板壁で閉ざす。上層は高欄が廻してある。 堀川沿いの商家の玄関は、物資の積み下ろしのため川側にあり、土蔵が裏手に造られた。元禄13年の大火で1649軒の家と15社寺が焼失。尾張藩四代・徳川吉通は、防火のため商家群の裏道を拡幅、幅4間(約7m)とした。このため四間道の名が残った。 道の約800mの両側に江戸時代からの建築が残されている。その多くは「有松絞り」問屋でほとんどが塗込め造り(蔵造り)、平入りで格子戸がはまっている。県指定である「服部家」「竹田家」が素晴らしい。町並みに連続感はない。

 

甚目寺南大門 甚目寺東門 甚目寺三重塔 満徳寺多宝塔
あま市甚目寺東門前24 あま市甚目寺東門前24 あま市甚目寺東門前24 稲沢市長野町3-2-573
竣工/建久7年(1196/鎌倉前期) 竣工/寛永11年(1634/江戸前期) 竣工/寛永4年(1627/江戸前期) 竣工/室町後期
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
伝説によると建久年間に源頼朝の命により梶原景時が奉行をつとめ建立したとされる。明治35年の解体修理の際に、「建久七年造立」と書かれた墨書が見つかっている。入母屋造、こけら葺。県内最古の楼門建築 真言宗智山派の寺院である。通称「甚目寺観音」で、有名。寛永11年建立と言われ、銅版葺、四脚門、切妻造という桃山時代の様式を残している。明治24年の濃尾地震で転倒したが、そのまま起こされたと伝わっている。 欄干の擬宝珠の銘によると、寛永4年に名古屋の両替商・吉田半十郎政次の寄進により建立された。天正13年の地震で倒壊したが江戸時代に古材を活用し、再建された。形式としては室町時代の様式をそのまま伝えているといわれる。 萬徳寺は現在真言宗の寺院で、創建は奈良時代に遡るという。方三間、宝形造檜皮葺屋根。室町後期の元亀年間(1467-1572)頃の建立と考えられている。二重の中心部は円筒形。性海寺の多宝塔を参考に造られたという。

 

性海寺多宝塔 性海寺宝塔 津島神社楼門 津島神社本殿
稲沢市大塚南1-33 稲沢市大塚南1-33 津島市神明町1 津島市神明町1
竣工/室町後期 竣工/鎌倉末期 竣工/天正20(1592) 竣工/慶長10年(1605)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
多宝塔は方三間、屋根の勾配が緩やかで、軽ろやかで優雅さがある。建築様式から判断して室町時代の建立と考えられる。享禄4年(1531)の連子窓額縁の墨書が最も古く、寛文3年(1663)に相輪を改作、貞享2年(1685)に内部の彩色がなされた。 性海寺本堂は、正面扁額に慶安元年の再建と記されるが、内部来迎回りと須弥壇、天井の部分には、鎌倉時代の遺材を利用している。須弥壇上の羽目板裏には、弘安4年の墨書が認められる。宝塔は小塔ではあるが、細部まで精巧な作で鎌倉時代末の優作である。 楼門は三間一戸、入母屋造、檜皮葺。角細部には和様が多く採用されている。昭和16年の解体修理に際して、天正19年、同20年の墨書が発見され、建立年代が明らかになった。蟇股などにすぐれた意匠があり、よく当初の美しい姿を残している。
本殿は三間社流造、檜皮葺。蟇股の彫刻に平面文様的な室町末期の様式と立体写生的な桃山様式が混在している。規模は雄大で、装飾も豊かであり県内の神社建築では傑作といわれる。大工は岡本勘右衛門吉正、棟梁を岡本與兵衛吉家他としている。

 

旧堀田家住宅 犬山城天守   天恩寺仏殿
津島市南門前町1-2-1 犬山市大字犬山字御門先1    岡崎市片寄町山下33
竣工/正徳年間(江戸中期) 竣工/慶長6年(1601) 竣工/ 竣工/室町前期
★国指定重要文化財 ★国宝 ★国指定重要文化財
母屋と3棟の土蔵から成る。主屋は切妻造、重層桟瓦葺、屋根にはうだつが見られる。大戸口を入ると右手に「みせ」があり、その奥に一段高くなった「みせざしき(客間座敷)」があり、左手に「こみせ(待合の間)」がありこの辺りが商空間と思われる。 外観3階、内部4階、地下に踊り場を含む2階が付く。南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式。天守の高さは19m。入母屋造二重二階の建物の上に望楼部を載せる望楼型天守。石垣は野面積。尾張藩の付家老の成瀬氏が明治まで城主として居城とした。   仏殿は桁行3間、梁間3間だが等寸ではない。入母屋造、檜皮葺の禅宗様仏殿。柱は総丸柱。正面と背面に両開き桟唐戸吊り、正面の両脇間及側面の前端一間には花頭窓を設ける。南北朝期の禅宗建築を伝えている。バランスの良い美しい姿の仏殿である。

 

大樹寺三門 大樹寺多宝塔 滝山寺三門 妙源寺柳堂
岡崎市鴨田町広元5-1 岡崎市鴨田町広元5-1 岡崎市滝町字山籠107 岡崎市大和町字沓市場65
竣工/寛永18年(1641) 竣工/天文4年(1535) 竣工/文永4年(1267/鎌倉中期) 竣工/正和3年(1314/鎌倉後期)
★県指定文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
大樹寺は、4代の松平親忠により、文明7年に創建された。三代将軍徳川家光により大造営が行われ、伽藍が整えられた。三間一戸、八脚楼門。入母屋造、本瓦葺、上層部高欄付。棟札に幕府大棟梁の木原藤原朝臣義久、大工の平内大隈守正信の名がみえ、幕府の直轄工事であった。 多宝塔は方三間、宝形造、こけら葺の和様の塔である。和様の多宝塔は一般的には下層の柱は角柱だがここでは丸柱を採用している。心柱の紀年銘から、天文4年の立柱であることが知られる。蟇股や木鼻などに室町時代後期の意匠がよく残されている。 境内に残る室町時代の建築である。 本堂から少し離れた滝町の集落の入口にある。三間一戸、入母屋造、こけら葺。ほぼ和様で造られているが一部に天竺様が見受けられる。市内最古の建造物。文永4年の建立とされるが、様式的には鎌倉時代末期~室町時代前期の建築と考えられる。仁王像は15世紀前半頃の作。 柳堂は方3間、寄棟造、檜皮葺、一間の向拝を設ける。前面と背面に双折桟唐戸を、両脇間には蔀戸を吊りその他は板壁である。浄土真宗では門徒が集まる道場が建てられ、阿弥陀如来や聖徳太子を祀る御堂として小さな仏堂が建てられたと見られ、柳堂はそうした遺構の一つである。

 

信光明寺観音堂 上地八幡宮本殿 土呂八幡宮本殿・拝殿 伊賀八幡宮拝殿
岡崎市岩津町字東山47 岡崎市上地町字宮崎57 岡崎市福岡町字南御坊山 岡崎市伊賀町東郷中86
竣工/文明10年(1478) 竣工/室町後期 竣工/元和5年(1619/江戸前期)

竣工/寛永13年(1636/江戸前期)

★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
室町中期に造られた禅宗様仏殿。岩津城主・松平信光の建立である。方三間、入母屋造、こけら葺。浄土真宗寺院の本堂としては最古のものである。境内には、観音堂のほか、開山堂、客殿、中門、総門などが残されている。 三間社流造、屋根は檜皮葺。永禄6年の三河一揆の兵火を免れたと社伝にあるが焼失したと思え、翌年に家康が石川数正に焼失した土呂八幡宮を再興させた折に当八幡宮も再建されたと考えられる。元禄13年に彩色が施された。 永禄6年の三河一揆の兵火で焼失し、翌年に家康が石川数正に再建させた。さらに元和5年に代官・畔柳寿学が伊勢の大工・河北次郎兵衛定守に命じて本殿を建立した。寛保3年(1743)には拝殿。本殿は三間社流造、檜皮葺。
●本殿 慶長16年、権現造の本殿は入母屋造が普通だがここでは流造である。
●幣殿・拝殿・神供所 幣殿・拝殿は寛永13年、三代将軍・家光によって本殿に増設された。神供所は神様の供物を調整したり物を置く場所。

 

六所神社社殿 六所神社楼門 金蓮寺弥陀堂 三河大野の町並み
岡崎市明大寺町自耳取44 岡崎市明大寺町自耳取44 西尾市吉良町饗庭七度ケ入 新城市大野町
竣工/寛永11年(1634/江戸前期) 竣工/貞享5年(1688/江戸前期) 竣工/文治2年(1186/鎌倉前期)

竣工/

★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国宝
家康の祖父・松平清康の創建。家康誕生時の産土神とされた。本殿、幣殿、拝殿が一体の権現造、国重文である。本殿幣殿拝殿の屋根は檜皮葺、神供所、楼門の屋根は栩葺である。造営は鹿島神宮本殿に関わった遠州大工である鈴木近江守長次による。 楼門は入母屋造、間口三間、典型的な和様の建築である。修理で貞享5年の墨書が発見され、徳川綱吉による元禄の造営によるものと判明した。典型的な和様の楼門の構成で、主要部分は丹塗、上層高欄や格天井は黒漆塗、本殿に比べて彩色は少ない。 県内最古の木造建造物。源頼朝が安達盛長に命じて建立させた三河七御堂の一つと伝わる。中尊寺阿弥陀堂に代表される一間四面堂の流れを汲む建築。方三間、主体部の全面一真通りと向かって右側面2間分に孫庇を設け上部を縋破風とあする。
秋葉街道と別所街道が交叉する交通の要所でもあった宿場町。「戸倉砥石」が産出、販売されて栄え、明治中期頃からは盛んになった養蚕の集散地としても繁栄した。街道の角に「鳳来館」という近代洋風建築の喫茶店がある。旧大野銀行本店の転用。

 

足助の町並み 財賀寺仁王門 大橋屋(旧旅籠鯉屋) 大橋屋(旧旅籠鯉屋)
豊田市足助町 豊川市財賀町観音山3 豊川市音羽町赤坂紅里127 豊川市音羽町赤坂紅里127
竣工/ 竣工/室町後期 竣工/江戸後期

竣工/江戸後期

★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財 ★市指定文化財 ★市指定文化財
中馬街道と呼ばれた伊那街道、飯田街道の宿場町。三河湾で採れた塩を山間部に運ぶための塩の道で、足助が舟運の終点で、ここからは馬に乗せて物資を運ぶ。馬稼ぎ人足が作った同業組合が「中馬」というので中馬街道となった。 三間一戸、寄棟造、こけら葺。左右に平安後期作といわれる金剛力士像(重文)を安置する。始めは楼門として計画されたが、二階を造らず一重八脚門として整えたものである。本堂内の厨子もの文明15年(室町期)で重文。 赤坂宿は江戸から数えて36番目の宿場で、35番目の御油宿とは16町(1.7km)と短い距離にある。大橋屋は文化5年(1809)の赤坂宿大火後の建築と考えられ、当時の屋号は「鯉屋」だった。写真は営業時のもの。
明治11年の明治天皇の東海北陸巡幸では行在所として使われた。1階は板間と畳でナカミセは約8mの高さまで吹抜けとなっており、梁や小屋組が見られる。保存修理工事が終了して、現在は一般公開されている。

 

2020.04.07

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