恵比寿
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静神社 那珂市静2 |
延喜式名神大社に列する、「常陸国風土記」に郡西□里、静織里、未識織綾之機、・・・」とある。創建の時期は不明であるが、六国史の一である「文徳実録」に「文徳帝嘉祥三年(850)九月庚午、使を遣わして静神社に奉幣せしむ」とあるのが、国史上における初見である。同じく「三代実録」には「光孝天皇仁和元年(885)六月」神階が従五位上に進められた事が書かれてある。日本書紀(720)、古語拾遺(807)にも建葉槌命についての記事が出ている。特に「延喜式神名帳」(927)には、鹿島神宮などとともに「明神大」としるされている。豊臣家からは社領一五〇石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されている。 静神社の建築 本殿 1842(天保13年) 無指定 3間社 |
大黒天
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立野神社 大宮市上小瀬字白幡351 |
大化2年(646)久自国造物部鎮斎、延喜式内小社、常陸二十八社氏の族、立野連が建立。 白旗明神ともいう。創立年代は不明ですが、延喜式神明帳に「常陸国式内二十八社の第十一座」とある名社です。現在の地に移ったのは天正年間といわれています。祭神は風の神で、級長津彦命と級長津戸辺命です。神社は静かな所にあり、静寂そのものですが、祭には神楽が行われ、祇園祭には、お囃子が出て賑わいます。 なお、本社には本殿の建築、改修を伝える貴重な棟札が中世時代のものから近世のものまで二十数枚保存されています。 |
毘沙門天
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小松寺 東茨城郡城里町上入野3912 |
真言宗智山派に属し、山号は白雲山普明院という。寺伝では天平17年行基が大御堂を建て、創建したという。治承4年(1180)、平貞能がその主人小松内府重盛の遺骨を持って東国に下り、一寺を建立したと伝えられる。至徳年間(1384-87)、佐竹一族の侑尊が大掾氏の招きによりが中興開山した。寺宝の浮彫如意輪観音像は重盛公が念持仏としていた平安時代の優品です。二十二世の住職・代宥上人は知識学徳の誉高く、光圀(義公)とは特に交際の念厚く、春秋の好季節に当白雲山に来遊し、碁、茶道、釣りを楽しみとなされました。 小松寺の文化財 唐門 1781-88(天明期) 町指定 四脚門 観音堂 1781-88(天明期) 町指定 方3間 本堂 1663(寛文3年) 無指定 |
辨財天
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日輪寺 久慈郡大子町大字上野宮字真名板倉2134 |
天台宗で八溝山と号し、本尊は十一面観世音菩薩。寺伝は七世紀後半に役小角の創建と伝えられる。大同二年(802)空海が再興、仁寿二年(852)円仁が堂宇を増築したという。源頼朝は寺領一万石を与え、武運長久を祈ったという。福島県東白川郡棚倉町八月の都々古別神社にある木像十一面観音像の台座銘によると、天福二年(1234)にはすでに八溝山観音堂があった 古くは八溝山には上ノ坊(光蔵院)と下ノ坊(善蔵坊・勝蔵坊)の院坊があり、日輪寺は南院とも称して下ノ坊にあたり、板東三十三所観音中二十一番の札所である。文明年中(1469〜87)には本堂の他、観音堂、地蔵堂など伽藍がそろっていたが、寛永二十年(1643)焼失、万治三年(1660)再建されたが、明治十三年(1880)の山火事で本尊を残し堂宇を焼失。その後も法灯は維持され、昭和四十八年(1973)再建された。三十三番札所中の難所として「板東の八溝知らず」といわれたが、今は山頂付近まで小型自動車が登り、毎年数千人の巡拝者で賑わう。 |
寿老人
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徳蔵寺 東茨城郡城里町徳蔵874 |
真言宗智山派に属し、山号は引布山金剛法院、寺号を徳蔵寺と称する。寺伝では、弘仁年間(810〜824)弘法大師空海が当地に密法を広めようと徳蔵の山中で雨乞いの祈りをしたという創建の話が伝えられる。また、八〇〇年前、平安時代末期に高僧弁海上人により、栃木県境の八瓶山麓に開山され、七堂伽藍が建立されたとも伝えられる。その後、宗教、教育、文化の地として三〇〇もの坊を有する大勢力となり栄えたが、元久二年(1205)笠間佐白の正福寺僧徒百坊と遺恨あり、宇都宮藤原時朝の援兵のもとに徳蔵寺三百坊は兵火に罹り僧坊は焼失した。しかし、諸仏は焼失を免れ、大永二年(1522)空法によりこの地に移され再興された。「笠間記」によれば慶安年中(1648〜52)に朱印地五石が与えられた。現在は本堂の他、大師堂、観音堂がある。 徳蔵寺の文化財 太師堂 1666-00(江戸前期) 村指定 方三間 |
福禄寿
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大山寺 東茨城郡城里町高根118 |
当山は、高根山閑心院大山寺と称し寺伝によれば、開創は千百八十年前の弘仁元年(八一〇)旧三月十五日、平安前期、嵯峨天皇の時代に弘法大師空海によって開創されました。ご本尊である婆王尊は弘法大師御作の尊像であり、古来より、虫切り・子育ての高根山として、子授け・安産・厄除けの寺として大勢の方々に信仰されております。また、関東唯一の尊像として、霊験あらたな、ご本尊にお参りすれば、子供の無魔成長が叶うと云われている。とくに、天文16年(1547)三月二一日、大山因幡守義勝公が男子を授かるよう祈願文を献じて、めでたく男子を出産し嫡流を継ぐことが出来たと云われ、また、水戸徳川家も嫡子、姫君の出産の時はすぐさま使者を立てて祈願し、つつがなく成長したことから、代々藩主のためにも重要な役割であったとされている。さらに徳川将軍家からも代々御朱印を拝領し、当地希有の格式を持ち、代々十石を授けられていました。 大山寺の文化財 山門 1666-00(江戸前期) 村指定 四脚門 |
布袋
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佐竹寺 常陸太田市天神林町2404 |
真言宗豊山派で山号は妙福山明音院。寺伝では寛和元年(985)、元密上人の開基、常陸の大豪族、佐竹氏初代の昌義が菩提寺とした。坂東三十三観音札所の22番である。正保四年(一六四七)佐竹寺六三世の宥音による「妙福山明音院佐竹寺観音縁起」では佐竹寺の寺号は別当の峰に生える二〇尋に一節の竹の奇瑞にちなみ、妙福山という山号は観音の不思議な力にちなみ、明音院という院号は観音の威光によると徳一大師が名づけたものであるという。寛文三年(一六六三)の「開基帳」によると寛和元年(九八五)に花山天皇の命で元密上人が創建したともいう。創建当初は天神林の鶴ケ池北、洞崎の峰にあって、観音寺と称したという。初代佐竹昌義は治承元年(一一七七)に寺領三〇〇貫が与えられ、佐竹家の菩提所となる。その後荒廃していた寺堂を文永六年(一二六九)六代長義は再建し、観音堂を祈願所として再興。しかし、天文十二年(一五四三)火災により堂宇および醍醐寺三宝院の法流を伝える古文書等を残らず焼失した。十八代義昭が天文十五年(一五四六)に現在の地に移し、堂宇を再建した。江戸時代には徳川光圀より寺領を与えられた。 佐竹寺の文化財 本堂 1546(天文15年) 国指定 方5間 |