025 守横町のこと |
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現在の守横町付近と 昭和10年の守横町 |
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守横町の名は、正保年間にそれまでの馬之地上町を守横町に改めたことから始まりました。元来、馬之地と呼ばれていた富田組に属し、その上手にあった故に馬之地上町の名がついていました。 守横町の由来は守木横町の略で、天保年間の府中町絵図には 「守木ヨコ丁」 と記されています。 「守横町稲荷の向こうに寺あり。守横町稲荷、二月初午祭りあり、さてまた毎年二月初午の日、町々にていなり講とて当家の前に大旗をたて、講仲間寄合て振舞あり、甚だ賑しく」と江戸時代の守横町の様子を描いているのは、天明4年(一七八四)の「常府古跡案内しるべ」 です。守横町稲荷の向こうの寺とは来迎山常光院のことで、明治末期までその東方は畑地だったといいます。 石岡が商都として繁栄を極めた明治時代、守横町には鍛冶屋、米雑穀、菓子屋、人手や物品の世話をする周旋屋などがありました。 総社宮例大祭の新しい年番制度が誕生した明治35年には、こんな楽しいエピソードが生まれました。 守横町では、祭に各町内とも獅子を出すので、「俺の町内では」 と島田杢之助棟梁が象頭を作って出したことがあったが、囃子に大分苦心されて、象の鳴き声だと竹筒を鳴らして市中を練り歩いた」とあります。 (「石岡郷土資料6」昭和34年今泉義文) 昭和52年4月1日、住居表示法施行により守横町は、国府一丁目?六丁目に分かれました。 守横町には寺院は常光院、神社は宇迦魂稲荷神社があります。常光院は寺伝によると、後朱雀天皇(在位1036〜1045)の代に府中城の外城に大学清治が創建したという。府中五大寺の一つと云われました。本尊は阿弥陀如来、天台宗の寺院です。宇迦魂稲荷神社は創建年代が不明です。稲荷神社は豊穣を願う農民の信仰を集め、 中世以降に商工業が盛んになるにつれ、農耕から商業、町家にも勧請されるようになりました。 |
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守横通り 宇迦魂稲荷神社 常光院の地蔵尊
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