024 金丸町のこと


               現在の金丸町付近と                昭和10年の金丸町

 金丸町の地名は、中世・府中六名家のひとつ「金丸氏」に由来するといいます。「新編常陸国誌」には、「金丸 府中ノ旧家六人ノ内ナリ、蓋故ノ在庁官人ノ後ナリ」 とあり、ここに金丸氏の広大な居宅があったものと推定できます。

 戦国期は府中城の一郭であり、慶長年間の府中町成立後に町立てが行われ、近世中期以降に府中13町の一つとして中町組に属すようになります。

 幕末ごろから小川・鹿島街道沿いに新町が形成され、明治28年の石岡駅設置により金丸新道が開通、町筋が拡大します。

「……停車場より吐き出された客は、左右の大道を思ひ思ひに歩を移す……七会屋旅館の側より、猿田銀行の前を通って、だらだら坂をぶらぶらゆけば、大きな酒蔵に衝き当る……この道の右手の畑中に土浦区裁判所石岡出張所がある……。この後方に電気会社がある。行燈よりランプに、ランプより瓦斯に、瓦斯より電燈と物質的文物は、この光明を点ずるのである」 (「石岡しるべ」大正2年篠原憲文)

 昭和410月には、駅前から真西に伸びる通称「八間道路」御幸通りが完成し、市街は駅を中心にますます発展しました。

 金丸町の山車には、優雅できらびやかな弁財天がのっています。先代の弁財天は江戸の人形師・古川長延作で、明治期にはおめでたい 「大おかめ」が乗っていました。

 昭和52年4月1日、住居表示法施行により金丸町は、国府一丁目・二丁目・三丁目となりました。

 町内には寺院は華園寺、神社は鈴之宮稲荷神社があります。華園寺は藤沢市にある時宗の本山・清浄光寺の末で鎌倉時代、遊行二世真教上人,常陸国巡行の折この血に立ち寄り創建したと伝えられます。鈴之宮稲荷神社は常陸国府が置かれた時代に,官人の交通のため駅馬や駅鈴が置かれた駅舎がおかれました。駅舎には,官人が往来する時は駅使が鈴をならして通行したと云われます。駅制が無くなり,駅舎にあった駅鈴をこの神社に奉納し,「鈴之宮稲荷神社」になったといわれています。


              昭和10年代の御幸通り                      鈴之宮稲荷神社
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