017・石岡の町と祭礼

 江戸時代になると、石岡の町は府中、または府中平村と呼ばれ宿場町に変わっていきます。かつての国府域の村々は、それぞれに独立し村内に鎮守をまつるようになりました。

 しかし、この時代においても常陸国総社宮は、府中域の総鎮守として大きな求心力を持っていました。99日の例大祭には、神前に相撲を奉納する一大イベントが催され、この奉納相撲に近郷近在の力自慢たちが集まりました。近隣の村人が総社宮に集い、村をあげて応援に熱狂しました。

 寛政3年の 「総社神宮祭礼評議」には、その賑わいが記されています。
 「(奉納相撲は)今に至るまで休むことなし。これ大勢の人集めをいたし、祭日賑わしく、神も喜びたまう」

 この奉納相撲こそ、大祭の中で最も古い伝統をもつ行事であり、現在も連綿と続いています。

 一方、府中の町に新たな民衆の祭りが広まってきます。京都の祇園会の流れをくむ八坂神社の祇園祭礼がそれで、例年旧暦の6月日日から14日の二日間繰り広げられました。八坂神社は、府中の中心部・中町にあり、そこを出た神輿は華やかな行列を従えて高浜神社に向かい霞ケ浦へ「御浜下り」を行います。翌14日は、各町内から様々な風流物が出て、街中は大きな賑わいをみせます。

 この風流物を示す最も古い記録は、江戸時代に府中の総名主を代々務めていた矢口家に残されています。今からおよそ240年前の明和年間、矢口家の御用留「祇園御祭礼之次第」には、

  一番 さゝら   富田    二番 やたいおどり 中町

  三番 子供おどり 香丸    四番 子供おどり  守木

  五番 ミろく   木之地   六番 ふし     泉町

  七番 田打おどり 幸町    八番 ほうさい   青木

  九番 かたかた  若松町   十番 ほろ     仲ノ内

  十一番 人さゝら  金丸

 このように多彩な出し物が記載されています。この中で現在も残っているのは一番の富田のささらのみで、五番の木之地のみろくは、昭和9年を最後にその姿を消しています。

 府中の祇園祭礼が終わった翌月の72日には、愛宕神社の祭礼が繰り広げられます。同様に、明和年間の御用留を眺めてみましょう。 「一番さ?ら富田守横町、二番俵付馬正上内、三番俵付馬岩城内小目台、四番俵付馬土橋、五番塩くみせいけん笠香丸町、六番子供おどり森木町」、ここでも一番は富田のささらで、常に露払いの大役を担っています。

 二つの祭礼の記録を追っていくと、出し物は屋台踊り・子供踊り・田打踊りなどの踊り主体のものと、富田のささら・木之地のみろく・土橋の大獅子などの風流物とに分けられます。そして、これらの風流物が明治期以後の常陸国総社宮大祭の大きな役割を占めるようになってきます。

 夏から秋にかけて、府中の町は三つの祭りで賑わいました。祇園祭礼、愛宕神社祭礼、そして99日の常陸国総社宮例大祭です。

 明治期に入ると、祇園と愛宕神社の二つの祭礼が次第に小規模化し、各町内の風流物は総社宮の祭りに移行していきます。

 明治20年、府中四組交替の年番制度が始まりました。香丸町・中町・守木町・富田町の四町内が、4年に一度年番町内となって祭礼を執り行うことになりました。さらに、明治35年になると現在まで続く新しい年番制度が生まれ、石岡市内16町による祭礼が制度化されます。近代的な祭礼が始まり、あの絢爛で厳かな供奉行列と多彩で華やかな獅子や山車のパレードがここにスタートしました。

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