016・常陸国と総社宮

  筑波嶺に 登りて見れば尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ

 万葉集にうたわれた恋瀬川の風景は、霞ケ浦へ続く豊かな田園地帯として今も変わらぬ姿を残しています。ここでうたわれている「師付の田居」とは、かすみがうら市志筑から石岡市にあたる国府域の水田地帯のことで、恋瀬川の流域を指しています。

 恋瀬川は、古くから「志筑川」 「表川」 「鯉川」 などいくつもの呼び名があり、その両側の台地は古代から絶好の居住地でした。千三百年もの昔、この台地の一角に常陸国の国府が置かれ、石岡は長らく政治・文化の中心地として繁栄を誇ってきました。

 国府の長官は国司と呼ばれ、その重要な任務の一つに国内の神社の管理と祭事の運営とがありました。新しく国司が赴任してきた場合は、国内の神々を参拝する「神拝」という行事があり、新任の国司は常陸国の神社を次々に訪れました。

 この神拝を簡略にするため、国内神社の神々を一堂に集めまつったのが、「総社」でした。

 社伝によれば、常陸国総社宮の創建は天平年間で、天神地砥の六神がまつられています。六つの祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・素蓋鳴命(すさのおのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)・大国主命(おおくにぬしのみこと)・大宮姫命(おおみやひめのみこと)・布留大神(ふるおおかみ)で、このほか12の境内神社があり常陸国の主な祭神がここに集まっています。

 総社宮に伝わる県指定文化財「常陸総社文書」 には、平安時代における絶大な勢力と壮大な規模を示す貴重な記録が残されています。

 治承3年、約800年前のこと、総社宮の社殿を建てる際に常陸国の主要神社が社殿や鳥居などの造営を負担しました。二宮の静神社をはじめ、三宮の吉田神社や筑波神社など有力神社の名が「総社文書」 に連なっています。八郷地区の片野村と高友村からは鳥居が寄進され、境内には10以上の社殿と五つの鳥居があったことが読み取れます。

 国府の総鎮守として大きな力と神威を持つ総社宮は、国司以後も代々支配者の篤い崇敬を受けてきました。

 社宝として伝えられる二つの軍扇を見てみましょう。黒漆に朱書きの軍扇は、約550年前に名将太田道潅が寄進したものです。永享12年の夏、奥州へ向かう折り、当社を参拝した道潅は、和歌を詠んでいます。

 曙の露はおくかも神垣や 榊葉白き夏の夜の月

 江戸時代に入り、道潅の子孫である浜松城主・太田資宗がこの軍扇と対面し、感激とともにこれを収納する金の梨地の筒を献納しています。もう一つ、金箔をほどこした漆革軍扇は、府中城を陥落させ大掾氏に取って代った佐竹義宣が所願成就のために献じたものです。
 平安時代の優れた歌人の歌を描いた三十六歌仙絵馬は、小河城主・薗部氏が500年前の文亀2年に寄進しています。

 これらはいずれも県指定文化財であり、総社宮の連綿たる歴史を伝えるとともに、貴重な歴史遺産として常陸国の盛衰を雄弁に物語っています。江戸時代の古文書にも見える随神門の両側には、市指定文化財の左大臣右大臣がひかえています。そのほか、この地を訪れた日本武尊(やまとたけるのみこと)が腰掛けたという伝説をもつ 「腰掛石」や歴代の年番町の名が刻まれた石燈籠が立ち並んでいます。

 明治期の夏、ここを訪れた人は、こう書き記しています。

「幾段の石階は蒼然として古色を帯び、三本の老杉が差す陰の冷やかなるを覚ゆ、酷夏炎天を焦すの時、一度ここに逍遥せんか。冷気骨を沁して三伏の暑立所に忘れん」と。

 総社の杜は、今もなお常陸国の聖域なのです。

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万葉集の巻九・高橋虫麻呂の歌

筑波山に登れる歌
草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も
秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日に 思ひ積み来し 憂へはやみぬ
   反歌
筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな