013・園部川の佐竹の首塚

石岡から岩間に向かう県道沿いに、小さな橋が掛かっています。石岡市と旧美野里町の間を流れる園部川をまたぐこの大矢橋は、中世の動乱の歴史と悲劇が秘められています。

 治承4年(一一八〇) といいますから、今からおよそ800年前のこと。常陸太田を拠点に常陸国北部一帯を支配し、飛ぶ鳥も落とす勢いにあった佐竹氏を東国平定を目指す源頼朝が、攻め滅ぼそうとしていました。その年114日、大勢の部下を引き連れた源頼朝軍は、常陸国府の石岡に到着しました。

 2カ月前には、伊豆の平兼隆を滅ぼし、小田原・安房・武蔵・相模と進み10月上旬には鎌倉へと進軍しました。1020日、駿河の富士川で平維盛の5万の大軍と戦い、敵方はあっけなく西走します。その後、有力家人が、「一気に京都に攻め上る前に常陸国の騙れる佐竹義政を撃ってから、平氏方を追って関西に向かうべきです」 と進言しました。「吾妻鏡」 によれば源頼朝はそれに従い1027日鎌倉を立ち、石岡に向かいました。

 常陸国府に着いた頼朝軍は、さっそく佐竹氏に帰順勧告を起こしました。すみやかに降伏して、頼朝軍の支配下になれというわけです。佐竹氏には兄の義政と弟の秀義がいました。兄はその勧告に従い、弟は父が平氏方であることを理由に拒否し、金砂郷の城に籠もり頼朝軍と戦いました。

一方、兄の義政は親戚筋にあたる上総介広常に迎えられ府中に招かれました。義政が大矢橋にさしかかったとき、頼朝の命を受けた広常は佐竹義政に切りかかりました。殺された義政の首は橋の近くに葬られ、胴は少し離れた行里川に埋められたと伝えられています。大矢橋のすぐそばにたたずむ佐竹の首塚には、そんな歴史が秘められています。籠城して戦った弟・秀義は、叔父の裏切りによって敗走し、頼朝軍はその目的を達成したのでした。

012 目次 014 015