008・府中城の土塁

 石岡小学校の敷地に立つ市民俗資料館と市民会館の間に、エノキとケヤキの巨木におおわれた小高い丘があります。それは、古墳でも隆起した地面でもありません。今を去る650年前のこと、室町時代の正平元年(一三四六)から数年を費やして、大橡詮国が築造した府中城の土塁です。

 府中城は、石岡小学校の敷地を中心に東西500m・南北400mのエリアを持ち幾重にも堀をめぐらした堅固な城郭だと伝えられています。府中城の土塁は、石岡小学校の校門の両側に残るのみです。その上にはうっそうとしたケヤキとエノキの巨木がそびえ立っています。

 このエノキの樹齢は、300年近くあるといわれています。市民会館と競うような木の高さで、土塁の脇には深い堀があって、敵を拒むような造りになっていたようです。

 天正18年(一五九〇)、佐竹義宣に攻められて府中城は落ち、石岡を支配していた大掾氏は滅亡しました。以来、府中城の主は佐竹義尚から六郷政乗へと交替し、元禄13年(一七〇〇)松平頼隆が領主となったとき、その名は「府中陣家」と改められました。

 府中陣屋は、府中城の三の丸の地域に設けられ、その会所には領内の民政を担当する郡奉行や同心・手代などの役人が詰めていました。府中城の解体と共に府中の町を囲む土手や堀も次第に崩され、新しい屋敷地が造成されていきました。

「府中雑記」には、「森の木、香丸、金丸、富田四ケ所の入口小土手ありて木戸をすへ、番人を置き、明暦申年土手を崩し屋敷となれり……」と記されています。

 次第に城下町の建設が進められる府中の町でしたが、文政?年には陣家のシンボルである陣屋門が建設されます。600年の歳月を経た府中城の土塁、それは戦乱の石岡を語る数少ない歴史的遺産なのです。


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