004・国分寺の鐘伝説(1) |
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雄鐘が吊るされていた国分寺の仁王門(明治41年焼失) 雄鐘 | |||||
承和元年(八三四) 3月のある真夜中、鹿島灘旭の子生(こなじ)浜の沖合で、目映いばかりの金色の霊光が、天に向かって光り輝きました。渦潮を照らし、東海の深い闇の燦々(さんさん)と白い光に驚かされたのは、浜に住む人たちばかりではありませんでした。鹿嶋神宮の森に眠る烏も時ならぬ東天の明かりに羽ばたきながら、異様な声を立てました。浜の住人たちは、「これは何かのご来迎のお啓示に違いない」と、おそれをなし、砂浜にひれ伏し、手を合わせて拝みました。 するとその夜、浜の住人の夢枕に錫杖(しゃくじょう)を持った白衣をまとった僧形が現れ、「里の人々よ、今宵の光は、龍宮国王より、和国帝王の勅願所、常陸府中国分寺へ献上する雌雄二口の霊鐘が発したものである。諸々の災厄を払い、国民が安穏を得られるよう、贈られたものであるから、皆で力を合わせ、早く国分寺へ届けなさい」と告げ、姿を消しました。 浜の住人たちは、夜明けを待って舟で沖合に漕ぎ出してみると、鏡のような朝凪(あさなき)の海面に二つの鐘が黒い影を浮かべていました。一行は舟を近づけ引き上げようとしましたが、鐘は岩盤のごとくびくとも動きませんでした。そのとき、昨晩夢枕に立った僧形が現れ、呪文を唱えながら珊瑚(さんご)の念珠を鐘の龍頭(りゆうず)に投げ付けてスーツと姿を消しました。 すると二つの鐘は、自ら波間にゆらゆらと浮かび上がったので、引き上げることができました。鱗(うろこ)状の青錆(あおさび)に包まれた鐘本体と、龍頭からしたたり落ちる水滴は、異様な輝きを発し、あたかも泳いでいた龍が陸に這い上がるかのような荘厳な容姿に、人々は皆声を潜め、手足が震えました。 浜一番の清浄の地、七日ケ原に鐘を安置したとき、人々はほっと胸をなでおろしたといいます。「海神様のお使いだ」群がる見物人は皆、しめ縄の外にひれ伏し、だれも鐘を直視できませんでした。 春の日の昼下がり、二つの鐘は府中国分寺に運び入れられました。 子生浜には、現在でも七日ケ原、車作の地名が残り、鐘が通過した所には八日ケ堤、また車軸が鐘の重さに耐え兼ねて折れた所には、こみ折れ橋などの地名が残っています。 浜の人々にとって、なにもかもが驚きでした。龍宮城もこのような所であろうかなどと想像していると、やがて国司の出迎えを受け、法堂の広間に招かれました。一行は茶菓珍膳の厚いもてなしを受け、多くの布施財物を戴きました。思わぬ霊鐘の人貢に、国分寺側の歓びは尋常ではありませんでした。 間もなく盛大な献鐘式が行われ、高い丹塗りの鐘楼に二つの霊鐘が吊るされました。その荘厳さは言葉にならないほどで、瑠璃(るり)色に晴れ渡った天空に紫の雲が開けて、花びらのごとく降り注ぎました。諸々の仏の化身は、幻のごとく鐘の上に現れては「この鐘の音は、常に四天王の威力を伝えて、一切衆生、三界の苦悩を断ち、必ず国土を守りぬく」と宣言し、再び鐘の上に消えていきました。 僧侶たちはこの霊象を敬い慎みました。合掌、九拝し、護国品三部大経50巻を7回転読し、所業成就を誓願しました。 紫の衣をまとった見事な容姿の沙門の手に撞木(しゆもく)が握られ、初めて霊鐘が撞き鳴らされた時は、雷鳴の如く山河を震わせ、その余韻は人々の邪心を打ち消していきました。 この鐘の音が国分寺の森を揺るがし、朝夕響き渡るようになってから、不思議にも国内にはびこつた罪科はなくなり、悪疫も除かれ五穀も豊かに実るようになりました。 つづく
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